田尾城 所在地 徳島県三好市
JR阿波川口駅西1.8km
区分 山城
最終訪問日 2008/10/22
城入口の冠木門 南北朝時代初期、宮方の小笠原義盛が大西城を本拠としていたが、その子か従兄弟といわれる頼清が、讃岐の脇屋義助と呼応して建武4年(1337)に築いたのが田尾城の最初という。この後、30年ほどは小笠原氏が三好郡を中心として細川氏と対立していた為、田尾城も阿波小笠原氏の嫡流が保持し続けたと思われる。
 南北朝時代の終盤になると、嫡流の小笠原氏は没落し、その庶流とされる三好氏や一宮氏が細川家に臣従して血脈を伝えた。戦国時代にこの周辺一帯を支配した大西氏も、そのような小笠原庶流のひとつという説があるが、白地城を築城した近藤氏の末裔ともいわれており、詳細はよく判っていない。確実に言えるのは、三好長慶の妹を迎えて三好家と結び、この吉野川上流一帯に着実に勢力を培っていたことである。
 戦国時代末期になると、南の土佐で長宗我部家が勃興し、有力な国人が長年に渡って相争っていた土佐国内の統一を成し遂げた。長宗我部家の当主元親は、土佐統一に続いて伊予と阿波への侵攻を開始し、土佐と阿波の国境の領主である大西家を圧迫し、服従するよう大西家当主覚養の兄を使者として立てたとも、白地城に攻め寄せて武力を背景に屈服させたともいう。これは、天正3年(1575)かその翌年のことである。
南城館の縄張図 しかし、中央を制した信長が、元親に対する切り取り勝手の約束を反故にして三好氏の後援に回り、四国出兵が現実味を帯びてくると、覚養は密かに三好方に通じ、長宗我部氏に対抗すべく戦の準備を始めた。このような情勢の中、田尾城は前線の拠点として天正5年(1577)に覚養によって改修され、長宗我部軍の襲来に備えて弟頼信が城主に据えられたのである。そして、頼信は13歳という年齢だった為、家臣寺野武次をその補佐とし、籠城兵として3百人が付けられた。だが、同年か翌年に田尾城へ攻め寄せた長宗我部軍は3千で、城兵の10倍という数であり、武次の指揮で善戦はしたものの、2日間の攻防の末に火攻めで落城し、主従は本拠白地城へ落ち延びたという。そして、荒廃した城も廃城となったようだ。
 田尾城は、南北朝時代は南朝方拠点のひとつであったものの、その後は重要視されなくなり、戦国時代は見張りを置く程度の砦だった期間が長かった為か、規模自体は小さい。城への遊歩道の途中には、堀切が1ヶ所見られる他は遺構らしい遺構は見られないが、往時には三重の堀があったという。頂上部は南城館と呼ばれる郭で、直径20m程度の円形をしており、周囲は高さ1m程度の土塁が巡らされていた。また、搦手側の北にも、幾筋かの空堀と竪堀、そして北城と呼ばれる南北朝時代の主郭があったという。しかし、案内板にあった堀切群も含め、北部分は藪が深くて確認することができなかった。
登山道にある堀切と石積 登城口の所には冠木門があり、遊歩道沿いには柵や堀切、逆茂木、狭間といった城の構造物が実物付きで説明されていて、城に詳しい人が主導して整備したようだ。城を巡っているので当然知っている内容なのだが、城が地元の人に大事にされているということが城好きとしては嬉しい。また、城の遺構ではないが、田尾城の登城口のすぐ前には、元親が田尾城攻略の指揮を執った指揮所が残っている。この指揮所から城を見ると、まさしく峻険としか言いようが無く、当時の過酷な攻城を想像して、ただただ感嘆するばかりだった。