勝瑞城 所在地 徳島県藍住
JR勝瑞駅北西700m
区分 居館
最終訪問日 2016/10/15
勝瑞館の案内板 現地表記では勝瑞城館であるが、細川時代から三好時代の居館として勝瑞館の名が知られており、そちらの名とした。
 勝瑞館の築城時期は諸説あってはっきりしないが、少なくとも15世紀後半には存在が確認できる。伝えられるところでは、土成の秋月から守護所を移されたのが最初とされ、細川頼春かその子頼之、詮春の時代という。また、鎌倉時代に小笠原氏が守護所を置いたという説もあるが、承久3年(1221)の承久の乱の功によって阿波守護となった小笠原長清は池田に大西城を築いて守護所としたというのが一般的で、南北朝時代も、南朝方に与して大西城を拠点に北朝方の細川氏と争っており、小笠原氏が創始した可能性は低いようだ。鎌倉時代の史料に阿波小笠原氏の記述が少ない為、平時の守護所として使われたという可能性を否定することはできないが、あくまで伝承の域を出ない話である。
 南北朝時代、武家方の阿波守護となった細川氏は、抵抗する小笠原諸氏を降して阿波を掌握し、やがて讃岐や土佐、伊予の一部にも守護権力を及ぼしたことで、四国は戦国時代までの細川氏の勢力の根源地となった。その中で、阿波守護は、尊氏に従った和氏・頼春兄弟が相次いで務め、やがて頼春の子頼之が父頼春の討死に伴って継承することとなる。その頃の細川家の惣領は和氏の子清氏で、幕府の執事を務めていたが、やがて傲慢な運営や政敵の讒言もあって失脚し、頼之に清氏討伐令が下され、頼之が討伐に成功したことによって細川氏の惣領となった。この時、戦勝を記念して井隈だった地名を勝瑞に変えたという。また、これに伴い、頼之の後を受けて弟の詮春が留守を守ったともいわれ、後には頼有が阿波守護となり、頼有の跡は兄詮春の子義之が継いだ。こうして、この義之の系統が讃州家と呼ばれた阿波細川氏となり、頼之の跡を継いだその弟頼元の系統である管領京兆細川氏を支え、細川一党の繁栄に貢献した。
複雑な構成となっている堀の跡 しかし、応仁元年(1467)の応仁の乱以降、中央の度重なる戦乱に駆り出され、更に京兆細川氏の政元の養子として阿波細川氏の義春の子澄元が迎えられたことから、その後継争いである両細川の乱には一方の主勢力として参加し、その過程で小笠原氏の裔とされる家宰三好氏の台頭を許すこととなる。これには、澄元やその子晴元が阿波細川氏の流れであった為、三好氏が阿波細川氏の頭越しに京兆家に重用されたという事情もあった。こうして、阿波細川氏は三好氏に勢力を徐々に奪われ、更に三好氏の最盛期を現出した長慶が晴元を追放すると、その弟之虎(実休・義賢)は、阿波守護家当主で晴元の従兄弟にあたる勝瑞城主の持隆と足利義栄の擁立を巡って対立し、命の危険を感じた之虎は天文22年(1553)に持隆を謀殺、その子真之を担いで守護を傀儡化する。これにより、之虎が勝瑞城主となり、兄長慶の勢力拡大を支え、河内高屋城が陥落すると畿内河内の支配をも任された。しかし、永禄5年(1562)には、和泉で畠山高政や根来衆と戦って討死してしまい、その跡を子の長治が継いだ。
 長治は、信長の入京後、三好三人衆と共に信長に対抗し、やがて降伏して許されたが、後見していた重臣篠原長房を謀殺したことによって阿波国人の離反を招き、また、法華宗を強要したこともあって、三好家の本拠阿波での影響力を低下させてしまっている。そして、象徴的存在であった真之が三好氏の手元から出奔し、四国統一を狙う長宗我部元親の支援を受けて長治と対立すると、天正5年(1577)に敗れた長治は勝瑞館を落ち、自害した。
館にあった庭園の跡 之虎の次子で、叔父一存の跡を継いでいた十河存保は、この長治没後の混乱を収拾すべく、急遽讃岐から南下し、真之を敗って阿波の三好方勢力の糾合に成功したが、間も無く、今度は元親の阿波侵攻が本格化する。存保は、信長を後ろ盾としてこれに抗戦するが、本能寺の変という不運もあって天正10年(1582)の中富川の合戦に敗れ、屋形近傍の勝瑞城に1ヶ月弱の間、籠城した後、開城して讃岐に退いた。この戦いの際、居館は焼失したと見られる。戦後、阿波を掌握した元親は主城を一宮城へと移した為、勝瑞館は本拠としての機能を失い、天正13年(1585)の四国征伐後には、阿波を与えられた蜂須賀氏が徳島城を築城する為に資材を全て持ち出して完全に廃城となった。
 現在は、発掘調査が進められ、戦国時代中期の守護所としての優雅な構造が確認されている。これまで、南北朝時代に居館と城が築かれたとされてきたが、実際は三好氏時代に城郭が構築されたようで、それまでは守護所としての居館だけであったらしい。また、大規模な居館となったのも三好時代であったようで、山口や越前一乗谷といった当時屈指の居館城郭に匹敵する規模となり、敷地内には御殿や接待用の会所、複数の庭園などがあった壮麗な数寄屋造りと予想され、周囲には幅12mの堀が廻っていたということが判っている。実際、文献にも千宗易や今井宗久などの豪商が招かれていたことが載っており、これだけでも当時の栄華が想像できるだろうか。
 勝瑞館の跡地は、訪れた時も発掘調査が続いており、ただただ広い空間が広がっていたが、広い堀跡が明示されているほか、会所も復元されており、いずれは史跡公園として整備される予定という。館が東側に広がる可能性も指摘されており、史跡公園整備後に再び訪れたい城である。