勝瑞城 所在地 徳島県藍住町
JR勝瑞駅北西640m県道14号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2016/10/15
堀と本丸跡にある見性寺 勝瑞城の築城時期は、以前は南の勝瑞館の築城と同じ頃と考えられていたが、発掘調査の結果、戦国時代末期の中富川の合戦直前に構築された可能性が高くなっているという。
 勝瑞城の城主居館に当たる勝瑞館は、伝承では鎌倉時代の小笠原氏から、少なくとも14世紀後半の細川氏時代には存在した守護所で、発掘調査によって全国有数の居館城郭であることが判ってきた。城下町も、細川氏や三好氏の勢力を物語るように相当に発達しており、現在の西勝地、東勝地を中心に、直角三角形のような形で南北約1.5km、東西約2kmほどもあったようで、北は旧吉野川とそれに備えて西側まで延びる土塁を築き、南は現在用水路となっている千間堀で城外と区画する、いわば惣構に近い形であったようだ。全体として見れば、大河と湿地帯の中に存在する城郭都市といった趣で、今川氏の駿府に近い。このように、勝瑞館は支城と惣構という大きな枠組みで防御する仕組を持っていたが故、いかにも城郭という感じの防御施設を築く必要があまり無かったと思われる。こういう構造は、勢力の集約が進んだ戦国時代末期の近世城にはよく見られるが、戦国時代中期の段階に実現できているのは、細川氏や三好氏という大勢力の成せる業だろうか。逆に言えば、長宗我部軍に備えていかにも城郭といった趣の勝瑞城を築いたというのは、惣構と支城網という防御線が維持できないほど動員兵力が減ったという証でもあると言える。
三好4代の墓 長宗我部軍の阿波侵攻は、天正3年(1575)の海部城攻略に始まり、天正5年(1577)かその翌年に白地城を攻略し、着実に歩を進めていたが、信長が三好一党の事実上の惣領であった十河存保の後援に付いてからは、離反などがあってやや後退を余儀無くされていた。しかし、四国討伐を目指して織田軍が集結を掛けていた間に本能寺の変が起こり、突如として三好勢が孤軍と化した事から、長宗我部元親は重臣から一両具足まで意思統一を図り、準備万端で勝瑞城に攻め込んだ。こうして刃を交えたのが中富川の合戦で、8月28日のことである。本能寺の変から合戦までに3ヶ月近くの期間があり、また、発掘調査の結果を踏まえると、攻勢を期待していた存保が一転して守勢を覚悟し、勝瑞館の詰として城を築いた可能性が高そうだ。
 合戦は、中富川を挟んで行われたが、すでに兵力的に劣勢であった三好勢は、開戦後しばらくして総崩れとなり、勝瑞城へ退却している。そして、そのまま籠城戦へと移行し、途中、豪雨による洪水も挟みながら、翌月21日には存保も開城して讃岐へ去った。城を接収した元親は、戦後処理を行ったが、元親は一宮城を阿波の主城とした為、勝瑞城はその機能を失っている。勝瑞館の遺跡に焼失の痕跡があることから、恐らく戦災で城や館を含む一帯が焼失し、元親は復興に時間と手間が掛かると判断したのだろう。更に、天正13年(1585)の四国征伐後には、阿波を与えられた蜂須賀氏が徳島城を築城する為に勝瑞城から資材を全て持ち出し、完全に廃城となった。
土塁と矢竹 現在は、短辺約60m、長辺約80mの長方形の本丸跡が、三好氏の菩提寺見性寺の境内となっており、周囲を囲っている水堀が健在である。ただ、遺構としては、幅15mほどの堀のほか、部分的に土塁を残しているのみで、やや物足りない感は否めない。急造の平城として、致し方ない所だろうか。
 藍住町を東西に貫く県道14号線を走っていると、道路北側に明らかにそれと判る水堀が見えれば、それが勝瑞城である。駐車場は城の北西に用意されており、トイレもあるので、整備は申し分ない城だ。