大西城 所在地 徳島県三好市
JR阿波池田駅北東600m池田幼稚園付近
区分 平山城
最終訪問日 2008/10/22
大西城説明板 池田市街の中でも、北の川沿いは20mから30mほどの高地となっており、大西の丘と呼ばれている。その高さと背後の川を防御力として、大西城は存在していた。
 大西城の築城は承久3年(1221)で、同年の承久の乱で功を挙げた小笠原長清が阿波守護となって入部し、この城を築いたという。長清は小笠原氏の祖となった人物で、甲斐武田氏の初代武田信義の弟である加賀美遠光を父とし、この父と共に源平合戦に参陣して功を上げ、父の信濃の地盤を受け継いだ人物である。
 阿波守護職は、長清から嫡子長経に引き継がれたが、長経の次はその弟とも次男ともいわれる長房に伝えられ、長経の嫡子である長忠以降の嫡流は本領信濃を基盤とした。この為、長房は阿波に入部して阿波小笠原氏の祖となり、子孫は鎌倉時代を通じて守護職を世襲したという。ただ、長房は文永4年(1267)に平盛隆討伐の功で三好郡と美馬郡を与えられ、岩倉城に居城したと伝わっており、この城を代々本拠としたわけではなかったようだ。更に言えば、岩倉城を築城する以前に入城していたかどうかも不明である。
 南北朝時代に入ると、阿波小笠原氏は南朝に味方し、北朝方の細川氏と激しく対立した。この争いの中、大西城も史料に幾度か登場し、建武4年(1337)に嫡流の義盛が大西城から讃岐財田城に転じたことが見え、また、正平18年(1363)に小笠原宮内大輔が大西城に在ったことが見える。この宮内大輔なる人物の詳細は不明で、義盛の子か従兄弟という頼清に比定する説や、一宮氏の祖である成宗とする説があるが、いずれにしても、この宮内大輔の活躍した時代が旗頭としての小笠原氏の最後であった。これ以降、阿波小笠原氏の一族は次々と細川氏に臣従していくのである。このような流れの中、惣領だったと思われる頼清以降、嫡流は没落してしまったようで、庶家とされる三好氏や一宮氏が細川家臣として血脈を伝えた。
 戦国時代には、細川家に臣従した小笠原支族のうちのひとつとも、近藤氏の末裔ともいわれる大西氏がこの一帯を支配するようになる。大西氏は、三好長慶の妹を室に迎えて姻戚関係を結び、支配を安定化させ、大西城から南西に3kmほど離れた白地城に本拠を置いていた。そして、大西城はこの白地城の一支城として機能していたと思われるが、具体的な城主の名前などは伝わっていない。
 戦国時代の当主である覚養は、土佐統一に成功して阿波攻略に乗り出した長宗我部元親に対し、一旦は臣従するものの後に三好方へ寝返り、結局は長宗我部軍に敗れて天正6年(1578)かその前年に讃岐へと退いた。そして、元親は白地城を軍事拠点として使用したのだが、支城であった大西城がどのように使われたかは不明である。
 天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で、長宗我部家は土佐に押し戻され、阿波の大部分は蜂須賀正勝・家政父子に与えられた。領国を運営するにあたり、家政は領内に9つの城を定めて支城網を構築したが、この周辺の拠点として白地城ではなくこの大西城を選んでいる。これは恐らく、支配拠点と考えた場合の後背地の広さの点で白地城よりもこの城のほうが優れていた為で、家政は軍事的視点ではなく経済振興の視点で選んだのだろう。叩き上げの戦国大名の元親と、織豊系二世大名の家政で、同じ地域での拠点選びの対比が面白い。また、この時に拠点として大改修を施されており、石垣などが整えられたと思われる。
 阿波九城のひとつとなった大西城には、牛田又右衛門が城番として入り、後には老齢で中村重友へと代わった。ちなみに、この頃に池田城番などの名前が出てくるので、池田城や大西池田城などの名も混在していたようだ。その後、元和元年(1615)に一国一城令が出され、更に島原の乱後の寛永15年(1638)に古城破却の命令が出された為、城は段階的に廃城となったのだが、一国一城令を経ても城が実質的機能を残していたのは、徳島藩の中世的職制に関係があったらしい。つまり、重臣達の権力が他藩に比べて強く、その権限のひとつである支城制を廃絶するには、官僚制が確立されて重臣達の権限が低下する寛永期まで待たなければならなかったということである。
幼稚園の下に露出させている石垣 城の構造は、現地の地形から細長い連郭式の城と思われるが、現地案内板などに全く記載が無い為、細部についてはよく分からない。現在の池田幼小中高の各教育施設の敷地が城跡であるが、これらが建てられた際に遺構が破壊や埋立保存されており、幼稚園の下にある石垣と城郭並木と呼ばれる木以外は遺構らしいものは見つからなかった。幼稚園の下にある石垣は、幼稚園改築の際に石垣の東側を観察できるよう露出させたものだが、一部が崩壊しており、管理が心配ではある。また、露出している石垣部分は幼稚園の駐車場となっており、車が入らないよう写真を撮るのにちょっと苦労した。