岡崎城 所在地 徳島県鳴門市
JR鳴門駅東950m妙見山公園内
区分 山城
最終訪問日 2004/2/25
妙見社裏手の石垣 鳴門市撫養町にあるので、現地では撫養城と表記されているが、徳島県のパンフレットには岡崎地区からとった岡崎城とあり、南西麓の地名から林崎城とも呼ばれる。
 築城の時期は不明だが、将軍足利義稙が撫養で没したというのが史料にあることから、大永年間(1521-28)には三好氏の属城として城はあったと考えられ、城主としては小笠原氏や四宮氏の名が見える。しかし、戦国後期から安土桃山時代にかけて三好党の勢力が衰え、更には長宗我部元親の侵攻によって本拠であった阿波から讃岐に後退すると、長宗我部家臣の真下氏が城主となった。
 天正13年(1585)の四国征伐後、阿波一国は蜂須賀氏に与えられ、蜂須賀氏は本拠である徳島を中心として阿波九城を支城網として整備し、岡崎城もそのひとつとして益田正忠などが守備している。だが、やがて幕府による統制が強くなり、元和元年(1615)の一国一城令と寛永15年(1638)の古城破却の命令によって他の支城と共に廃城となった。ちなみに、徳島藩で支城の廃城が元和の一国一城令より遅れたのは、各地に封じられた重臣の力が強かった為といわれ、2度目の破却命令でようやく中世的な体制に終止符が打たれたということらしい。
 城のある山を西側から登っていくと、ガレの森美術館があり、横の駐車場から美術館の反対側へ少し階段を上がると千人溜りと呼ばれる空間がある。この駐車場や美術館、駐車場の上にある展望台は、もともと千人溜りに続く城の郭だった可能性もあるが、遺構などが見当たらないので、なんとも判断できない。そこからさらに上に登っていくと立派な天守閣が見えるが、これは鳥居記念博物館という鳥居龍蔵博士の業績を記念して作られた建物で、見た目とは違って内部に岡崎城の資料はカケラも見当たらなかった。
 博物館に隣接する妙見神社は、城主であった四宮氏の子孫と林崎郷の近藤氏が江戸時代に再興した神社で、この神社の裏手には石垣が残っている。ただ、標高から考えると鳥居記念館が本丸と考えられるので、二ノ丸を構成した石垣だろうか。この石垣は神社の裏手側だけで、反対の千人溜りの側に回ってみても廻っているはずの石垣はないが、この櫓台らしき場所から千人溜りに下りていく獣道沿いに2段に分かれた削平地があり、往時は石垣があったのだろう。また、神社の境内を囲う石垣も、その神社側の端から千人溜りにかけての1段目が、新しく積まれた部分と色が違って明らかに古く、土中に埋没していくことから、城が存在した当時の石垣ではないだろうか。
立派な天守閣の鳥居記念博物館 これらの石垣以外には、特に遺構らしきものは城跡に見当たらず、また、説明板も文だけで図などが無かった為、往時の姿や縄張りなどは想像するよりほかなかったが、いろいろ探索してあれこれ考えるにはなかなか面白い城である。鳴門市街や海が見渡せる城跡からの眺望は素晴らしく、当時重要視された場所に立地していることを物語るほか、ただ単純に景色を眺めるだけで非常に心地よい。訪れた日の天候がたまたま冬晴れの快晴であったので、冷えて澄んだ空気が古城の雰囲気に合い、なかなか良い時間を過ごさせてもらった。