川島城 所在地 徳島県吉野川市
JR阿波川島駅北西560m国道192号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2008/10/22
岩の鼻から吉野川の眺め 川島城の築城は、戦国時代も末に差し掛かる元亀3年(1572)のことで、三好長治と対立した三好家臣篠原長房の討伐の際に功を挙げた川島惟忠によるという。ただ、長房が居城としていた上桜城も川島城と呼ばれていたらしいので、惟忠の名字である川島を築城時に城名にしたのではなく、この地を拝領した惟忠が川島を名乗ったということだろうか。惟忠は三好一族といわれているので、その可能性が高そうである。
 川島城の築城後、惟忠の主君である長治が細川真之と対立して敗死し、十河存保が惣領となって三好家を必死で支える中、天正7年(1579)に長宗我部元親の侵攻によって岩倉城と脇城という川筋の要衝が陥落した為、惟忠ら三好勢は両城奪還を目指して脇城外で長宗我部軍と戦っている。これは岩倉合戦や脇城外の合戦などと呼ばれるが、岩倉城主三好康俊の謀略もあり、三好勢はこの合戦で大敗北を喫し、惟忠も討死してしまった。これ以降、川島城の事跡は不明となり、惟忠の後任はいたのか、また、いつ頃に長宗我部氏の属城となったか、長宗我部支配下では誰が城主だったかなど、詳しい事はよく分かっていない。
川島城本丸跡 天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で長宗我部氏が土佐に退くと、阿波の大部分は蜂須賀正勝に与えられ、隠居した正勝に代わって子家政が入部した。家政は、領内の9ヶ城に重臣を入れ、阿波九城と称して領内を支配したのだが、川島城もそのひとつとして定められ、林能勝が3百の兵と共に入城したという。そして、能勝から3代に渡って林家が城代を務め、川筋の要衝として機能している。
 江戸時代に入り、徳川幕府の権力が確立して行くにつれ、諸藩に対する締め付けがきつくなり、豊臣氏を滅ぼした元和元年(1615)には一国一城令が発布された。だが、徳島藩では、各地に封じられた重臣たちの力が強く、近世的な官僚制による藩体制の確立に時間を要した為、この頃はまだ重臣達にとって象徴のような存在である支城を廃する段階には到達していなかったらしい。従って廃城はあくまで名目的なものに留まり、実質的な城としての機能は依然残されていたようだ。結局、川島城などの阿波九城が完全に廃城となるのは、島原の乱と同類の一揆を防止する為に幕府が古城破却の命令を出した寛永15年(1638)のことであった。
川島城模擬天守 現在の川島城は、城跡付近に模擬天守が建ち、国道192号線から見てひと目で場所が判るようになっている。しかし、城の本丸はこの模擬天守の場所ではなく、岩の鼻と呼ばれる断崖絶壁の上にあった。この岩の鼻と呼ばれる場所には、吉野川を見渡せる展望所があるが、ここと繋がっている城山最高所の平坦地が本丸、川島神社のある場所が二ノ丸だったという。本丸跡の直下には忠魂碑があり、この碑の下にも段があるが、これらは遺構ではなく忠魂碑が建立された際に削平された場所という可能性が高い。これ以外には、神社の北西側に多目的広場があり、この場所も城跡の削平地を利用して造られたらしいのだが、吉野川の治水の為に岩の鼻の岩石が削り取られた為、旧状とはだいぶ異なってしまっているようだ。ただ、この多目的広場と川島神社の境目には割と古い石垣があり、もしかすると往時のものかもしれない。その他では、本丸と二ノ丸の間が多目的広場への通路となっているが、ここは往時には堀切が穿たれていたと思われる。また、神社と模擬天守の間の道路も堀切を利用したものだろう。
 訪れた時は川島城の模擬天守にも登ったが、やはり寂びの雰囲気がある古城に立派な近代的天守閣はどうにも違和感があった。展望台としては吉野川の眺めが素晴らしかったので言うことはないのだが、中は閑散としており、城好きの人にも地元の人の納めた税金的にも、誰の得にもなってないような気がするのは気のせいだろうか。