海部城 所在地 徳島県海陽町
区分
最終訪問日 2004/9/9
 鞆浦にあるので別名鞆城とも呼ばれ、海部周辺に勢力を持っていた海部友光によって永禄年間(1558-70)末、もしくは元亀年間(1570-73)に築城されたが、築城以前にも鞆城や島城と呼ばれた城砦があったという。
 海部氏の出自は不明だが、伝説上の人物鷲住王の子孫とも、海部郡司の末裔とも伝えられる。ただ、海部を名乗る前には藤原を姓としていたことから、真偽はともかく藤原氏流と自称していたのは間違いないようだ。いずれにしても、古代からの開発領主であることはほぼ確実で、中世には海部刀と木材の輸出で力を蓄え、中国や朝鮮とも交易するほどだった。
 戦国時代中期から後期にかけては、海部氏は阿波から畿内に勢力を広げた三好氏と結び、阿波南部の重臣として三好家を支え、この頃に之親の子友光が、それまでの本拠だった吉野城から海部城へと居を移している。しかし、元亀2年(1571)に有馬へ療養に向かう途中であった土佐の長宗我部元親の弟島弥九郎親益が、風浪を避けて城下の鞆浦、もしくは那佐湾に停泊した時、これを襲撃して郎党30名と共に討ち取った為、激怒した元親は阿波に侵攻を開始し、天正3年(1575)に城は陥落した。
 一説には、海部氏が元親に滅ぼされた土佐国安芸の安芸氏と誼を通じていた為、その旧臣が家中におり、友光に襲撃を勧めたという。また、築城時期もこの襲撃の前後である為、襲撃以前から元親の北上を警戒して築城し、その延長で襲撃したか、襲撃後に復讐を恐れて築城したとも考えられる。
 海部城落城以降の海部氏の動向は不明で、友光は紀州の縁戚を頼り、出陣中だった子の吉清は美馬に落ち延びたと伝えられるが、はっきりとしない。ちなみに、元首相の海部氏は名古屋出身だが、この海部氏の流れだそうである。友光の弟親政が、海部城落城時に大坂方面にいて難を免れ、その子孫が後に尾張藩に仕えたといい、元首相はこの子孫らしい。
 長宗我部氏が支配した海部城は、元親の弟香宗我部親秦が城主となり、阿波攻略の東方面の重要拠点となったが、天正13年(1585)に阿波征服が成った直後、秀吉による四国征伐が始まり、元親は土佐一国に戻され、阿波は蜂須賀氏に与えられた。そして、蜂須賀氏はこの城を阿波九城のひとつとして支配拠点に定めている。城を守る城番は、当初は5千石で中村重友が務めたが、後に益田一政と代わり、やがて城自体が元和元年(1615)の一国一城令と寛永15年(1638)の古城破却の命令で他の支城と共に廃城となった為、城番も廃された。ちなみに、徳島藩で支城の廃城が元和の一国一城令より遅れたのは、各地に封じられた重臣の力が強かった為といわれている。城番であった一政の子長行は、自ら支藩の藩主になろうと画策した為、正保3年(1646)に斬首されているが、この一連の動きがその証左なのだろう。
 訪れた時は、国道55号線沿いに案内表示が無かった為、町の中に入り込んで探してみたが、それらしい表示を発見することができなかった。鞆城というぐらいなので、海際にあるらしいのだが。