井上城 所在地 徳島県吉野川市
JR阿波山川駅南西1.7km
区分 平山城
最終訪問日 2008/10/22
井上城跡の土肥氏のものと思われる2基の墓 阿波にどのような足掛かりを持っていたかは不明だが、和泉半国守護の細川常有が宝徳2年(1450)かその翌年に築城した城で、築城当初は川田城と呼ばれていたという。以後は和泉屋形と呼ばれた和泉守護細川家が領有していたが、当然のことながら守護家当主は畿内に居ることが多く、不在時の城には代官を在城させていたようだ。
 常有の孫とも曾孫ともされる元常の時代になると、細川家では子の無かった管領細川政元の養子による家督争いで家中の内訌が続くが、このような混乱した情勢を背景として、永正年間(1504-21)初期に城の代官を務めていた谷右馬之助が叛乱している。これは、細川高国と細川澄元が争った両細川の乱の真っ最中の出来事であり、下剋上というよりは、澄元を支持していた元常に対して高国陣営が右馬之助に誘いをかけて叛乱させたと見るのが、時代背景的に妥当だろうか。叛乱を知った元常は、その討伐に讃岐国神崎城主土肥綱真(綱実)を向かわせ、城を奪い返し、新たな城代として丹治常直を据え、功のあった綱真を留守居として在城させた。
 元常は、これ以降も澄元、そしてその嫡子晴元を支えて畿内を転戦したが、やがて晴元の重臣三好長慶が高国の養子氏綱の側へ寝返ると、晴元は京から追われ、元常もそれに伴って没落してしまう。こうして元常は和泉の領国を失い、晩年の事跡はよく分らなくなるのだが、現地説明板にはこの川田に逼塞して天文23年(1554)に没したとあった。
 元常が没した後、この井上城には相変わらず丹治常直と綱真の子孫が在城していたようだが、永禄年間(1558-70)に土肥庸吉が常直を討つという事件が起こっている。この事件の背景はよく分からないが、一説には親細川派だった常直が親三好派だった庸吉に討たれたという。ただ、阿波守護の細川持隆が重臣三好義賢に討たれたのは天文21年(1552)かその翌年で、これ以降は持隆の子真之を傀儡化した三好氏の安定政権が続いて目立った動きが無く、また、三好家の支配に抗った真之の挙兵も天正年間(1574-93.1)に入ってからで、年代的に細川対三好という構図で事件を捉えるのは難しそうだ。とすれば、単純な下剋上かとも思えるが、常直の寿命や、康信、房長、房実などとも伝わる土肥氏の子孫の名とも合わせて不詳な点や疑問な点が多すぎ、推測の域を出ない。
 この城を我が物とした庸吉は、川田城と呼ばれていた城を井上城と改め、三好氏に仕えた。だが、三好家は永禄7年(1564)の長慶の没後に内訌が始まり、永禄11年(1568)の信長上洛後には更に勢力を衰えさせ、安定地盤の阿波も長宗我部氏の侵攻を受けるようになる。こうして吉野川上流の白地城が落ち、岩倉城や脇城も降伏すると、いよいよ危機感を募らせた三好勢は天正7年(1579)に中小の配下豪族を動員して岩倉城付近へ押し出した。だが、これは岩倉城主三好康俊と脇城主武田信顕の謀略だったようで、12月27日に城兵の奇襲を受けた三好勢は全滅に近い敗北を喫してしまう。この戦いは岩倉合戦や脇城外の合戦と呼ばれるが、井上城主土肥秀実もこれに参加しており、討死したと伝わっている。そして、主の居なくなった城も長宗我部軍に攻められ、落城したという。
 この後、長宗我部軍に城が使われたかどうかは不明だが、天正13年(1585)の四国征伐後に入部した蜂須賀家政は阿波九城を整備しており、少なくともこの時点で廃城となっているのは間違いない。
 吉野川の河岸段丘と川田川の河岸段丘が合成された段上にある城で、比高で見れば平山城であるが、正確には崖城に分類できる。ただ、現地説明板に縄張に関する記述がなく、発掘調査したのかどうかということも不明で、どんな構造であったかは分からなかった。地元で発行している本などで探せば分かりそうではあるが。
 現在、城跡一帯は田園風景となっており、遺構らしいものは見当たらなかった。しかも、圃場整備の工事が施されており、残っていたかもしれない遺構もこの工事で破壊されたと思われる。城の説明板以外に城跡を示すものとしては、説明板の横に墓が2基建っており、風化して字はよく読めなかったものの、土肥という名と天正の文字が読み取れ、恐らく城主だった土肥庸吉、もしくは秀実のものだろう。ちなみに、城への道路は非常に狭く、軽四でなければ通行が難しいので、車の場合は川田川沿いに止めて徒歩での散策がお勧めだ。