白地城 所在地 徳島県三好市
JR三縄駅北西1.2kmあわの抄付近
区分 山城
最終訪問日 2008/10/22
温泉施設の南にある白地城城址碑 西園寺家の荘園であった田井荘の荘司近藤京帝が館を構えたことに始まるという。ただ、築城時期は、白地城の説明板が建武2年(1335)、田尾城の説明板では久安6年(1150)となっており、また、一説に鎌倉時代前期とするものもあって、非常に開きがある。史料上では、建武2年の後醍醐天皇綸旨に西園寺家の荘園として田井荘が見え、この時点で西園寺家が荘園の権利を保持していたことははっきりしているのだが、近藤京帝という武将のことが不詳である為、築城時期はよく分からない。西園寺家の実質的な成立が鎌倉時代初期の公経の時代であることを考えると、久安6年の可能性は低いように思われるが、平安時代から伝承していた荘園だとすれば矛盾は無く、どう捉えることもできてしまう。
 築城時期はともかくとして、居館を構えた近藤氏は徐々に拠点として拡張し、城としての体裁を整えていったと思われる。また、近藤氏は荘司として入部したが、土着によって武士化していき、やがて阿波の最西部を意味する大西を称するようになったという。ただ、これにも別の説、つまり大西氏を小笠原流とする説がある。
 南北朝時代には、鎌倉時代に阿波の守護だった阿波小笠原氏の一族はほとんど南朝方に与し、北朝方の細川氏と激しく対立したが、次第に敗れて利を失い、これに臣従した。この戦いの中で阿波小笠原氏の嫡流は没落したようだが、庶家が細川家臣として生き延び、後の三好氏や一宮氏となる。そして、この白地城を本拠とした大西氏も、このような小笠原支族のひとつだったというのだ。
 これら小笠原庶家は共通して系図が明確でない為、本当に小笠原流だったのか検証できないというのが現状らしく、大西氏についても同様に伝わる系図ごとに異同が激しい。例えば、戦国時代の当主に関しても、元高、元武、頼武、頼包、頼晴などといった名が伝わっており、父子関係や兄弟関係にも差がある。
 戦国時代の当主として有名なのは覚養だろう。覚養が上のどの諱の人物であるか、はたまた別の人物であるかは不明だが、三好郡一帯に比較的大きな勢力を持っていたのは間違いない。もともと大西家は三好長慶の妹を迎えて三好氏と姻戚関係にあり、当然のことながら三好軍の一翼を成していたが、覚養の代に土佐統一を成し遂げた長宗我部元親が阿波攻略に乗り出し、臣従するよう使者を立てたとも、兵を率いて攻め寄せたともいう。天正3年(1575)かその翌年のことである。この時、覚養は弟とも養子ともいわれる頼包を人質として元親のもとに送り、長宗我部家に臣従した。だが、信長の四国征伐が現実味を増すと、覚養は元親から離反して再び三好側へと寝返り、戦の準備を始めた為、この動きを知った元親は、本来殺されるべき人質の頼包を厚遇して説得し、白地城攻めの道案内にしたという。そして、覚養は支城の田尾城が陥落したことを知ると、讃岐国へと退去し、天正6年(1578)かその前年に、白地城は元親の城となったのだった。
温泉施設の敷地にある白地城説明板 元親は、阿波、讃岐、伊予の三方向に兵を出し易いことから、白地城を四国統一の軍事拠点に定めて大改修を施し、ついに天正13年(1585)に四国をほぼ統一したのである。だが、時流は元親の領土拡張より早く、中央では秀吉が確固たる勢力を築いており、四国統一直後には早くも秀吉による四国征伐が始まり、長宗我部軍は各地で敗れてしまう。こうして、元親は土佐一国に戻ることを条件に降伏したのであった。白地城と共にあった四国統一の夢を達成し、元親の戦術眼が正しかったことは証明されたが、戦国時代の大きな時流には無力だったのである。
 四国征伐後、阿波は蜂須賀正勝・家政父子に与えられ、家政は領国運営の為に9つの支城を残したが、大西地方では、白地城に代わって大西城が九城に含まれ、白地城は廃城となった。戦国時代の軍事拠点という特徴を色濃く残す白地城よりも、後背地が期待できる大西城のほうが、統治拠点としては向いていると判断されたのだろう。
 城跡は、かんぽの宿として開発され、現在はあわの抄という温泉施設の敷地となっている。往時の城は、本丸が相応の規模を持ち、二重の堀に囲われていたというが、本丸だったとされる温泉施設の敷地内では、遺構は全く見当たらなかった。ただ、周囲を眺めれば、この温泉施設の周辺も平坦な地形であり、城があった当時は温泉施設の北や西も城域だったのではないだろうか。また、温泉施設の南には老人介護施設のような建物があるが、その敷地内に大西神社があり、その脇に立派な城址碑が建っている。この施設の敷地はあわの抄よりもやや下がった段となっており、ここも往時に城だったのは間違いなく、神社の後ろ側には不自然な盛り土や通路の基部に見られるような石垣もあったが、当時のものかは判断できなかった。
 国道32号線から白地城へと繋がる道は非常に急な登り坂で、吉野川の断崖と合わせて当時は非常に強い防御力の源となっていたのだろう。また、地図を見ると、国道32号線と192号線が十字に交差し、元親が描いたように今でも四国4県へはここから1本の道で出て行けることがわかる。