青木城 所在地 徳島県吉野川市
JR阿波山川駅東740m
区分 平山城
最終訪問日 2008/10/22
青木城の城址碑 青木城は瀬詰城や喜来城とも呼ばれ、その築城は天文3年(1534)に市原兼継、もしくは同兼行によるという。この2つの説は、同一人物を指したものかもしれない。ちなみに、兼行は新開忠重の子とされている。
 市原氏は、すぐ南西に位置する井上城の土肥氏とは、互いに連携して守るべく婚姻関係を結んでいたのか、縁戚関係であったらしい。もともと兼継は、青木城へ入る前は瀬詰城を居城としていたが、前述の土肥氏と領地を交換してこの地を得、城を築いたというから、兼継と新開氏から分かれたという兼行が同一人物とすれば、両者の関係は市原家成立の頃からあったのだろう。また、瀬詰という地名は、その字の通り川に近い場所のことで、瀬詰城から青木城へと居城を移したのは、要は川に近い平城から、より堅固な崖上へ城を移したということのようだ。ちなみに、新しく築いた青木城は瀬詰城とも呼ばれたようで、旧城との近さを示している。
 築城以降の市原氏は、土肥氏と連携して阿波細川氏、次いで細川家臣から主家を圧倒した三好氏に仕えたと考えられ、中小豪族らしく大なるものに臣従して生き残っていたようだ。しかし、戦国時代末期になると、中央から追い落とされた三好氏は勢力を失い、土佐では長宗我部元親が国内を統一して国外へと歩を進め、阿波へも侵攻の機会を窺うようになる。元親の阿波侵攻ルートは、海岸沿いの海部方面からと、吉野川沿いの三好郡方面からの2つのルートがあり、三好郡ルートで早々に攻略された白地城は、阿波、讃岐、伊予いずれの国へも兵を出しやすく、元親の戦略拠点とされていた。そして、元親は白地城から吉野川流域にも兵を繰り出し、岩倉城や脇城といった、青木城から見て吉野川上流の拠点も降伏させたのである。
 このような状況の中、三好勢は長宗我部軍の侵攻を食い止めるべく、天正7年(1579)末に岩倉城へ大々的に兵を展開した。だが、これは岩倉城主三好康俊と脇城主武田信顕による謀略だったようで、おびき出された三好勢は12月27日に城兵の奇襲を受け、ほとんど全滅に近い形で敗北してしまう。この戦いは岩倉合戦とも脇城外の合戦とも呼ばれるが、この中に青木城主であった市原兼頼、もしくは兼隆なる人物も含まれていた。兼頼は合戦では討たれなかったものの、合戦後に城を攻められ、青木城南方の高越山へ敗走した末に自刃したという。
 この後、城は長宗我部方に使用されたかどうか不明だが、同13年(1585)に蜂須賀家政が入部した際に阿波九城を整備しており、少なくともこの時点で廃城となっていたのは確実である。
 城は、吉野川の河岸段丘上にある平山城で、正確には崖城と呼ばれる場所に立地しており、北を崖と蛍川で守り、東も蛍川へ流れ込む小川と、小川が削った段丘で防御力を高め、南に1つ、西に大小2つの堀を穿っていた。特に南の堀は東西約55m、南北約18mという大きなものだったらしい。また、郭は、東に安楽寺丸、西に太郎丸、南に中ノ丸と幸神丸の4つが構えられていたといい、なかなか堅固な構えだったようだ。
大師堂の鐘堂からの眺め 現在、青木城の城跡は、大師堂と墓、田園になっており、かなり長閑な風景が広がっていた。しかし、残念ながら一帯の圃場整備が終わっていることから、遺構はほとんど破壊されてしまったのではないかと思われる。現地の説明板には、城の西と南に堀の痕跡が見られると書いてあったが、散策した限りではその痕跡らしいものを見つけることはできなかった。城址碑以外では、大師堂の鐘堂のところから見える景色が崖下まで見通せる眺望の良さを保っており、往時の城から眺めた景色はこれに近かったのかと偲ばせるのみである。