日光東照宮
所在地  栃木県日光市
東武鉄道東武日光駅北西2.2km
最終訪問日  2014/5/10
東照宮の入口である表門 説明するまでもなく、徳川家康こと東照大権現を祀る神社で、正式には日光が付かず東照宮という名称である。
 元々この日光は、古代から自然崇拝としての日光連山があり、平安時代には、男体山やその麓に勝道上人が修行の為に寺院を開いた。つまり、これら山岳信仰と山岳仏教、修験道が習合した霊場であり、武士が勃興して以降は、関東武士の尊崇をも集めていたという。
 江戸幕府を開いた家康は、元和2年(1616)に没し、当初は駿河の久能山に埋葬されたが、家康は遺言として、一周忌が過ぎたなら日光山に勧請せよと言い残したとされる。その理由は、関八州の鬼門を押さえて子々孫々を守護する為だったといい、2代将軍秀忠は翌元和3年(1617)、遺言通りに日光に社殿を造営した。だが、この遺言の話は、後に幕府によって作られた可能性も考えられるだろう。なぜなら、日光への改葬と東照大権現という神号には、南光坊天海と以心崇伝の政治的争いの影があり、実際に日光は政争に勝った天海が宰していた所であったからである。また、世界中のどの王朝でも見られるが、政権を安定させる為には創始者の神格化が避けられず、幕府によって守護神化されたと見ることもできるだろうか。
家康の神柩が納められた奥宮の宝塔 現在、8つの国宝と34の重要文化財を始めとした日光東照宮の建造物は合計で55棟あるが、これは3代将軍家光が寛永11年(1634)から2年に渡って行った寛永の大造替で建立された35棟の建造物や、その前後に諸大名によって奉納された建造物であり、秀忠時代の初期の建造物ではない。初期の社殿などは、徳川家の出自とされる新田流世良田氏の発祥の地、上野国世良田に移され、世良田東照宮として現存している。また、この大造替により、秀忠の時代からは一転して、江戸初期の技術や工芸の粋を集めた泰平の世らしいきらびやかな宮になった。
 平成11年に人類遺産としてユネスコの世界遺産に登録された為か、外国人の観光客も多く、観光地然として宗教的な厳かさが微塵も感じられなかったのは、どこの有名寺院でも同じようなものなので致し方ないところか。そもそも、比叡山や高野山のように宗教がメインとなっているのではなく、元々からして政治的な色彩の濃い性格の神社であるから、その辺りの影響もあるのかもしれない。また、折り悪く小学高の修学旅行生と時間がぶつかってしまい、それに拍車を掛けることにもなった。修学旅行などでも有名な場所だけに、ある程度落ち着いて見学したいならば、春や秋の修学旅行シーズンは避けた方が賢明かもしれない。
輪蔵と鼓楼 東照宮を散策して思うのは、全体を通して非常に華美なことである。これは、創始者の残した遺産が使え、権力機構も安定し、徳川幕府に最も力のあった時代の象徴だからだろう。一般の神社のイメージである静謐とは正反対で、神社神宮としては驚く部分もあるのだが、一時代の空気を表すものとして、建物から当時の昂揚した雰囲気が感じられ、それはそれで面白い。一方で、奥宮まで歩を進めれば、静かな木立の中に鎮まる家康の墓が在り、しっかりと祀る雰囲気があった。この華美と静謐の二面性が、東照宮の特徴なのだろう。