横地城 所在地 静岡県菊川市
東名高速菊川I.C.南東3.8km
区分 山城
最終訪問日 2016/5/22
横地城本丸 横地氏の居城で、金寿城ともいう。
 横地氏は、八幡太郎源義家の庶子家永(家長)が祖といい、永承6年(1151)に安倍氏鎮定の命を帯びて奥州へ赴く父頼義に従った義家が大雨で見付に滞在した際、在地の相良荘司藤原光頼の娘との間にできた子と伝わる。その子は、長じて父から横地の地を拝領し、横地太郎と名乗った。以後、勝間田氏や戸塚氏など庶族を輩出しつつ、3代長宗は保元元年(1156)の保元の乱で源義朝に味方し、4代長重は頼朝の挙兵において義経の指揮下にあり、鎌倉時代には御家人となっている。
 元弘元年(1331)からの元弘の乱では、8代長国は幕府方として笠置城攻めに参加しているが、その没後に跡を継いだ長則は、尊氏の軍に投じて上洛し、尊氏の九州落ちにも従った。南北朝時代が本格的に始まると、長則は一貫して北朝方として活動し、建武4年(1337)に遠江守護の今川範国に従って井伊氏と戦ったことが見え、その子家長も同様に今川家と行動を共にしたようで、太平記にも登場している。横地城を築城したのはこの家長とされ、将軍家の御供衆務めたほか、同時代の武将としては、範国の子である了俊貞世が九州探題として九州に下った際に付き従った為長なる武将が九州で討死したことが見え、長連なる人物も確認できるが、家長と同一人物であったのか、どういう繋がりであったのかなどは不明のようだ。また、この南北朝時代の末期頃から、横地氏は天野氏としばしば領地問題を抱えたようで、時には武力による衝突もあったとされる。
 15世紀に入ると、遠江守護職は今川氏から斯波氏へと代わるが、遠江今川家の支配は依然として強固で、以降も横地氏は今川家に属したようだ。しかし、長禄3年(1459)からの中遠一揆や応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の余波で、斯波氏と今川氏が激しく争うと、次第に遠江今川家の勢力は衰え、後援として駿河今川家の義忠が本格的に介入するようになってくる。こうした中、横地氏は一門勝間田氏と共に今川方として狩野宮内少輔と戦うなどしているが、文明6年(1474)に遠江今川家の貞延が討死したこともあってか、翌年頃には斯波氏に通じ、かつての遠江今川家の本拠見付城を修築して義忠に対抗した。ただ、背景の情勢は複雑で、斯波氏自体も東西両陣営に分裂しており、この時期には西軍側の斯波義廉が家臣の離反で孤立化していた為、義忠と対立したのは同じ東軍側の斯波義良(義寛)だったというのには留意が必要である。
横地城縄張図 斯波氏に通じた横地氏の主力は、当初は見付城に籠っていたが、義忠が文明7年(1475)か翌年に遠江に兵を繰り出すと横地城に戻ったようで、この横地城と勝間田氏の本拠勝間田城で攻防があった。この戦いで、横地城は勝間田城と共に落城し、義忠は横地四郎兵衛と勝間田修理亮の首を挙げたが、その帰路に塩買坂で両氏の残党に襲撃され、義忠もまた討死してしまったという。ただ、四郎兵衛が当主の秀国だったのか不明な上、系図にはこの頃に没した者がおらず、更に史料によっては落城しなかったともあり、実際はどうだったのかよくわからない。また、塩買坂も南西方向で帰路の駿府方向とは違う為、義忠は敗走の途中で討たれたとの説すらある。その後も横地氏の活動が見えていることや、義忠敗走説も考えると、この合戦は決定的なものではなかなかったようだ。
 今川家では、この義忠の討死によって幼少の嫡子龍王丸の存在が浮き、叔父である小鹿範満の専横を招くのだが、この時、幕府から政所執事伊勢氏の一門である盛時が仲裁の為に派遣された。この武将が後の北条早雲で、10年後に再び駿河へ下って範満を討ち、龍王丸改め氏親の家督を確実にしている。こうして家督を固めた氏親は、積極的に遠江への進出を図るようになり、幾度かの合戦を経て横地氏は永正年間(1504-21)の初期に領地を失ったといい、恐らく城も落城したのだろう。その後、遺児元国を擁した再興も失敗した為、元国は甲斐へ逃れて武田家に仕えたという。しかしながら、この応仁の乱から領地失陥にかけての辺りは、史料によって年代も含めかなり差異があり、全体的に不鮮明である。
 城は、東郭や東ノ城と呼ばれる金寿山を中心とする本丸の郭群と、西郭とも呼ばれる横地神社一帯の二ノ丸の郭群に分かれ、間に中郭という小郭を設けているが、本丸と二ノ丸が独立的な別城一郭の城と言えるだろうか。横地氏の領地失陥の際に廃城になったと見られ、その頃の中世的な色が濃い城で、非常に切り立った崖を持つ峰筋を削平して築かれており、谷筋から攻め上がるのはほぼ不可能ではないかと思われるほどの要害である。特に中郭の北側近辺の谷筋は、目を見張るほどの急峻さだった。
 本丸は、最高地から北側に落差を持ちつつ2段を重ね、井戸のある郭からは堀切を介して北西方向に高低無く郭を重ねており、下草はあるものの堀切や帯郭などといった構造を確認することができる。西の二ノ丸は反対に、最高地から南へ階段のように幾段も郭を重ね、各段に土塁や空堀が設けられていた。二ノ丸最高地となる横地神社社殿の背後は崖となっていたが、案内図ではこの北側や東側にも峰筋に沿って段郭が伸びていたようで、また、西方向は明確に削平地が確認でき、金玉落しや膝つき谷と呼ばれる方向へも郭群が延びていたことが判る。この2つの中間にある中郭は、主に倉庫があったようだが、こちらも南面に幾段か重ねられており、全体的に見て、非常に重厚な構えの城と言えるだろうか。
二ノ丸南面の段郭にある土塁堀 城の南側に案内板や駐車場が用意されているが、車がすれ違えないほど細い急坂を抜ければ、横地神社の南側の千畳敷と呼ばれる広い削平地に車を置く事ができる。一帯はハイキングコースにもなっているようで、各場所の案内がよく整備されて散策し易く、斯波氏を示す武兵衛原や殿ヶ谷、御堂谷など、想像力を膨らませる地名も多い。一帯は、城館跡を含め国指定の史跡にも指定されており、廃城から数十年しか経っていないような雰囲気さえ漂うような、想像以上に旧態をよく残した良い城だった。