諏訪原城 所在地 静岡県島田市
JR金谷駅西650m県道381号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2016/5/21
諏訪原城縄張図 武田氏時代に諏訪原城、徳川氏時代に牧野城や牧野原城と呼ばれた城。平野から見ると峻険な坂の上にあるが、頂上部は平坦で郭が広いという平山城で、正確には崖城と言うべきだろう。築城は天正元年(1573)で、武田勝頼が家臣の馬場信春に命じ、武田信豊に補佐させて築いた。諏訪大明神を城内に祀った事から、この名があるという。
 武田家は、信玄在世時の永禄11年(1568)末に、大井川を境とする駿河と遠江の分割統治を約して家康と共同で今川領に攻め込んだが、翌年5月には遠江東部を巡って家康とも対立し、以降は遠江と三河を巡る争いが両家の間で続いた。これが、元亀3年(1572)の俗に言う西上作戦の際の遠江諸城の攻撃へと繋がっていく。この遠征における信玄の目的が、遠江・三河の攻略であったのか上洛であったのかには議論があるのだが、二俣城や一言坂、三方ヶ原で相次いで武田軍は徳川軍を撃破し、遠江から三河のかけての北部一帯は武田家に悉く靡いたような様相さえ呈した。しかし、信玄は三河に侵入した所で病に倒れ、結局、武田軍は撤退することとなる。
二ノ郭中馬出の三日月堀 信玄は、そのまま翌年に病没した為、武田家の家督は四男勝頼が継いだ。勝頼は、故信玄の遠江攻略の方針を継承し、相続した年に遠江攻略の橋頭堡として、国境である大井川からすぐのこの場所に諏訪原城を築き、今福友清(浄閑斎)、もしくはその子丹波守顕倍(友久)に守らせ、寄騎として室賀昌清、小泉忠季を置いたという。そして、翌年には東遠江の重要拠点である高天神城の攻略に成功している。しかし、三河長篠城の奪還を図って出陣した翌天正3年(1575)5月の長篠の合戦で武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、家康は機と見て攻勢に転じ、8月に諏訪原城を奪取した。これにより、大井川の水運を使った高天神城への補給を妨げることには成功したのだが、それでも高天神城は堅く、城の攻略には更に6年を要している。
 徳川家の城となった諏訪原城は、大手郭が増やされるなど改修を受け、牧野城と改名された。これは、周の武王が殷の紂王を牧野に破った故事と城番だった牧野康成に掛けたもので、同じく城番だった東条松平家忠の後見役松井忠次も、松平姓を許されると共に周の字から縁起を担いで松平周防守康親と名乗りを改めたという。このほか、交代制の城番を同名別人の深溝松平家忠、戸田康長、西郷家員が務めたが、天正9年(1581)3月の高天神城攻略と、翌年4月の武田家の滅亡で城の存在意義が薄れ、同18年(1590)の家康の関東移封の頃に廃城になったようだ。
二ノ郭北馬出の薬研状の堀 城の構造は、崖を背として五角形の本丸を置き、そこから西にほぼ長方形の二ノ郭、更に二ノ郭の南西部に諏訪神社のある二ノ郭大手馬出と方形の大手郭を配しており、二ノ郭西側には惣郭として武家屋敷などがあったという。特筆すべきは武田家の城特有の丸馬出で、二ノ郭の中馬出、大手馬出、南馬出、東馬出の4つが三日月堀を伴って存在し、他にもやや歪な形ながら北馬出と東内馬出があった。この内、東馬出以外は非常に良好な形で残っており、散策のし甲斐がある。
 大手郭と大手外馬出は明治期の開墾によって茶畑になっているが、全体的には非常に良く旧状を残しており、流石は国指定の史跡といったところだろうか。主郭以外では、水ノ手郭に今でも水が溜まっていたほか、搦手郭は崖の立地を示すように非常に高低差があっていかにも後ろ堅固の城であり、思わず感嘆の声を上げずにはいられなかった。また、開墾されている大手郭にも南北の外堀がやや埋まりながら残っており、遺構の残存率の高さは素晴らしい。ちなみに、この大手郭の茶畑の中に今福浄閑斎戦死墓塚という碑があるが、浄閑斎は天正9年(1581)に久能城で病没したとされており、子らも翌年の徳川軍の侵攻で討死したようなので、あまり根拠は無い碑のようだ。