小山城 所在地 静岡県吉田町
吉田町役場北西1.0km
区分 平山城
最終訪問日 2016/5/22
本丸の小山城址碑 小山城がいつ頃に築かれたのかは定かではないが、伝承によると、文治年間(1185-90)に小山朝光こと結城朝光によって砦が築かれたのが最初という。ただ、文治年間というと源平の争乱終結後であり、その末期が奥州藤原氏との戦いの頃である為、時代背景からは築城理由が見当たらない。
 その後、室町時代から戦国時代に掛けて駿河と遠江を領した今川家の城となり、山崎ノ砦と呼ばれた。今川家の家臣の所領を記した今川分限帳には、井伊直親が領していたことが見えており、後には岡部元信が一帯を領したと思われる。この間、今川家では当主義元の討死と跡を継いだその嫡子氏真の失政があり、急速に力が失われて行った為、やがて武田信玄と徳川家康が共謀して永禄11年(1568)末に今川領への侵攻した。これにより、駿河は武田家、遠江は徳川家の領地となるのだが、今川家が完全に滅ぶよりも先に、信玄は家康との約を違え、翌同12年(1569)には遠江への進出を図るようになる。こうして、小山城は遠江と駿河の境を扼す重要な城と見られるようになった。
 その後の小山城は、岡部元信が武田家に降伏した為か武田方となったようで、同年以降に家康が松平真乗に命じて城を奪ったと見られるが、これには諸説あって年代がやや不明確である。いずれにしても、幾度かの攻防と奪取があったとみられ、元亀2年(1571)に武田家が城を奪い返し、馬場信春に命じて大規模な改修を受けると、大井川西岸の戦線を構成する城として機能し、高天神城などの東遠攻略の拠点となった。
 武田家領有当初、小山城の城代には大熊朝秀が任命され、翌元亀3年(1572)末まで1年半ほど在城し、その援将として相木昌朝も在城したようだ。信玄が元亀4年(1573)4月に没した後は、跡を継いだ勝頼の頃に朝秀の嫡子長秀が在城したことが見える。
本丸から二ノ丸への三日月堀と丸馬出 天正4年(1574)6月、勝頼は2万5千の軍を発して長年の目標であった高天神城の攻略に成功しているが、小山城は新たに築城された諏訪原城と共に駿河方面から進出する際の拠点として機能したと思われ、戦後は2城が高天神城への兵站拠点となった。この後、天正3年(1575)5月の長篠の合戦で勝頼が織田・徳川連合軍に敗れると、諏訪原城は8月に奪われてしまい、敗残の兵を小山城に迎えている。諏訪原城を落とした家康は、酒井忠次や松平康親の進言で、武田軍の敗戦の傷が癒えぬ間に小山城をも攻め取ろうとしたが、勝頼が各地から2万の兵を集めて出兵したことから、この時は兵を引いたという。ちなみに、この攻防においては、蒲原小兵衛、鳥井長太夫、朝比奈金兵衛、望月七郎左衛門、岡部忠次郎、鈴木弥次右衝門等が城将として見える。
 その後、高天神城は同9年(1581)まで武田家が維持しており、その兵站拠点として小山城も機能し続けていたと見られ、天正6年(1578)、同8年(1580)に徳川勢と小競り合いがあった。高天神城落城後は、小山城が前線となったが、天正10年(1582)の甲斐侵攻の際、城兵は城に火を放って甲斐へと落ちている。これに伴い、侵攻してきた徳川勢が城を占領したが、駿河と遠江が徳川領となった為、境の城という役目を失って廃城になったという。
 城は、湯日川に突き出した丘陵先端の舌状部分を区画して城としており、丘陵の地形をうまく利用した武田家の城らしい崖城である。舌状丘陵の先端が本丸で、空堀によって丘陵の根元と区画し、主要部に三日月堀と丸馬出を組み合わせて設けているというのは、規模は違えど大井川西岸の防衛線として同様の機能があった諏訪原城と共通する構造だろうか。また、周辺を歩いてみると、崖の腰部にもいくつか郭跡と見られる削平地が見られた。
見事な三重の三日月堀 現在の城跡は、能満寺山公園となっており、二ノ丸に模擬天守が建っているが、それ以外の遺構の保存状態は良い。小山城の見所は、二ノ丸外縁の三重の三日月堀だが、そこもはっきり残されていて見応えがあった。このほか、本丸と二ノ丸の間の空堀と武田家特有の丸馬出の三日月堀も保護されており、古城としての趣は十分である。これらに比べると、模擬天守の作為感が目立つが、展望台からは大井川が作り出した平野や遠州灘までが見通せて心地よく、また、城内を全体を眺めるにもちょうど良かったので、意外と有用ではあった。