興国寺城 所在地 静岡県沼津市
JR原駅北東2.2km県道22号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2013/10/14
本丸に建つ北条早雲と天野康景の碑 伊勢盛時こと、北条早雲が本拠とした城。
 興国寺城の築城時期は不明だが、早雲が今川家の家督争いを収めた功で興国寺城に入城した長享元年(1487)かその翌年までには築城されていたとされるほか、早雲自身が入部の際に築いたという説もある。ただ、早雲の興国寺城入城自体が確かな史料で確認できず、別の城だったという説もあるようだ。
 早雲の出である伊勢氏は、伊勢平氏の末流である俊継が伊勢守であったことから鎌倉末期に伊勢氏を称したというが、滝山寺縁起には伊勢前司藤原俊継とあるほか、更に遡れば伊勢朝臣という姓で伊勢国造の一族も官人として見えることから、出自にはやや疑問が残る上、鎌倉時代の動向も不詳である。早雲の家系は、足利家臣となった伊勢氏で、鎌倉末期には守護代も務めていたことが見え、尊氏が幕府を開くと、俊継の孫貞継は政所執事に起用された。早雲の備中伊勢氏はその更に分家なのだが、地方に土着した庶流ではなく、早雲自身は9代将軍義尚に仕えた幕臣であり、地方に所領を持ちつつも幕府中枢にあった家系である。父盛定も、将軍申次を務めた武将で、政所執事伊勢貞親の補佐役でもあり、一説に貞親の父貞国の娘を室に迎えていたという。つまり、早雲は政所執事の甥であり、流布される素浪人説とは縁遠い高級幕府官僚とするのが有力である。ちなみに、早雲はずっと伊勢氏を名乗っており、北条氏を称したことは無いのだが、出自が名門の伊勢氏ならば名流を名乗る必要が無く、当たり前の話なのかもしれない。
 早雲が京から駿河へと下った理由は、早雲の姉もしくは妹である北川殿が嫁いでいた今川家で内訌が起こった為である。北川殿の夫である今川義忠は、文明8年(1476)に遠江の土豪を鎮圧した際に討死するが、北川殿との子である嫡子龍王丸は幼少で、義忠の従兄弟小鹿範満を擁立する家臣団が現れ、今川家は分裂状態に陥ってしまっていた。しかも、範満の母は堀越公方の執事上杉政憲の娘であり、このような繋がりから堀越公方足利政知や扇谷上杉家が介入し、それぞれ政憲と扇谷上杉家臣太田道灌を派遣してきたのである。これを仲裁したのが早雲で、その案は、範満が龍王丸の成人までは家督を代行し、成人後は龍王丸に家督を返すというものであった。
興国寺城縄張図 従来の講談ベースの話では、早雲の抜群の知略によって解決したとされていたが、実際は、守護の今川家に堀越公方や上杉氏の影響力が及ぶのを嫌った幕府の意向で幕臣の早雲が仲裁に下向し、幕府の力を背景として交渉したというのが正しいようだ。この後、早雲は奉公衆に就き、引き続き幕臣として活動しているが、範満が龍王丸成人後も家督を返さなかった為、再び長享元年(1487)に駿河へ下向して範満を討つことになる。これについても、政憲が政知の怒りを買って同年に自害させられた事と、前年の太田道灌の謀殺と扇谷上杉氏の凋落などが影響しているとの指摘もあるようだ。
 いずれにしろ、幕臣から今川家臣となった早雲は、褒賞として与えられたこの興国寺城を拠点に伊豆へと進出し、後の北条氏の礎を築いていく。そして、早雲が韮山城へ移った後は、北条家臣の富永政直や青地弾正などが城代に任じられたようだ。
 この後、北条氏と今川氏は、早雲死後も協力関係を維持していたが、氏親の子氏輝の早世後に花倉の乱と呼ばれる家督争いを経て義元が当主になると、義元が北条氏と対立していた武田信虎との関係を強化し、更には天文6年(1537)に信虎の娘を室に迎えた。これに対し、早雲の子氏綱はその前年から今川家と断交して西進し、所謂河東一乱という争いが勃発する。この結果、河東と呼ばれる富士郡や駿東郡は北条傘下となるのだが、この頃の興国寺城の動向はやや不明確で、史料によっては、今川家の城だったのが乱で北条氏の城になったとあり、現地案内板では、河東一乱まで北条氏が支配し、以降は今川氏の支配と記されていた。ただ、一般的には、早雲の代で興国寺城を今川家に返還していたと語られる場合が多く、前者の説が主流である。
 河東の争乱はこの後も続き、やがて天文14年(1545)に上杉憲政と結んだ義元が河東奪還の為に出兵した。これは第二次河東一乱と呼ばれ、東西に敵を抱えた氏綱の子氏康は劣勢に陥り、結局は武田晴信(信玄)の仲裁で河東一帯を明け渡すこととなる。そして、河越城の後詰に赴き、翌年の河越夜戦の大勝を掴んだのであった。
 この後の城は、今川氏が支配したことが確実で、天文18年(1549)に大改修が施されたという。そして、同20年(1551)には一時的に北条氏が奪ったものの、すぐに今川家が奪い返し、やがて今川氏、武田氏、北条氏の間で三国同盟が成立すると、興国寺城一帯も平穏となった。また、この頃の城主としては、今川家臣佐竹高貞の名が見える。しかし、永禄11年(1568)に信玄が駿河へ侵攻して三国同盟が崩壊すると、氏康は今川家を支援するために駿河へ兵を派遣し、興国寺城は再び北条氏が支配した。そして、翌年には垪和氏続が対武田の守備を担って城主となり、元亀元年(1570)やその翌年にかけて幾度が武田軍と対峙している。
二ノ丸から本丸と本丸土塁 氏康の死後、北条氏は機能しなかった上杉家との同盟を見直して武田家と結び、城は武田氏の城となって保坂掃部介、水軍衆の向井正重、信玄子飼いの曾根昌世(正清)が在城したが、天正10年(1582)の甲州征伐の際には、昌世が徳川家に降伏開城し、徳川家臣の牧野康成、次いで松平清宗が城主となった。天正18年(1590)の小田原征伐後は、駿府を領した中村一氏の家臣河毛重次が入り、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の翌年には、徳川家臣天野康景が1万石で城主となる。しかし、康景は天領が絡む内政問題から慶長12年(1607)に出奔し、興国寺藩は改易、城も廃城となった。
 城は、愛鷹山の緩やかな南の裾野という地形もあって、非常に単純な縄張で、主郭部は北側を巨大な空堀で裾野と区切り、北から本丸、二ノ丸、三ノ丸と郭が続く。本丸の東に清水郭、空堀北側に外郭があるが、これは新しい時代の増設部分ではないだろうか。地形が地形だけに高低は少ないが、周囲にかつてあった浮島沼と深田を防御力とし、巨大な土塁と空堀で北側に対する備えを特に強化した跡が窺える城だ。
 城を訪れてみると、本丸後背の土塁が非常に高さもあって切り立っており、下から見ると相当な威圧感がある。そして、本丸後背の外郭との間の堀切を見ると、土塁の高さと相まってこれまた相当な深さがあり、身の危険を感じるほどだった。緩やかな丘陵地にある為、背後に回り込むのが簡単な上に城よりも高地となる後背の峰筋を断ち切ろうとすれば、これだけの高さの土塁とこれだけの深さの堀切が必要というのが現地からはよく解る。また、近世には、この土塁部分に石垣もあったようだ。城の二ノ丸や三ノ丸は、かつてあった土塁などが崩されており、原型を留めていない部分もあるが、幸いにも城地はほぼ残っており、城の全体像は把握し易い城である。発掘調査も進んでいるようで、今後、解り易い形で保存された史跡にして頂きたいと願う。