狩野城 所在地 静岡県伊豆市
伊豆市役所南西4.6km
区分 山城
最終訪問日 2013/5/19
狩野城縄張図 狩野城を居城とした狩野氏は、藤原南家流工藤氏の分かれである。工藤氏の始祖は、木工助であった藤原為憲で、木工助と藤原で工藤を称した。為憲は、駿河や伊豆などの権守を務め、その孫維景や維景の子維職は官職を務めた後に帰洛せず土着したという。こうして、工藤一族は伊豆に勢力を扶養し、伊東氏や宇佐美氏ら有力な工藤一門を輩出していく。狩野氏もこのような中で工藤氏から分かれ、維職の孫家次の四男茂光が狩野介を称したのが最初という。ただ、狩野を称し始めた武将は資料によって多少の前後があるようだ。また、狩野城は維職か、その子維次の代である1100年頃に築かれたという。
 茂光は、保元元年(1156)の保元の乱に敗れて伊豆大島に流された猛将源為朝の監視役を務めるほどの実力者で、為朝が自立する動きを見せた際には、伊東氏や北条氏などと共にこれを討伐している。その後、同じく平治元年(1159)の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆へと流され、治承4年(1180)に以仁王の令旨に呼応して挙兵すると、今度はこれに応じて頼朝軍に投じた。だが、石橋山の合戦で頼朝軍はあえなく敗れ、茂光は伊豆山中で自害して果てたという。
 こうして狩野氏は、鎌倉幕府草創期に犠牲を払い、茂光の子宗茂、行光、親光らは幕府御家人として各地に領地を得、それなりに繁栄したようだ。同じ草創の功臣でも、三浦氏や土肥氏、梶原景時ほどには栄達しなかった為、北条執権政治確立の際の功臣潰しの政争とは無縁だったともいえる。
 その後、鎌倉時代末期には六波羅探題の評定衆として為成の名が見え、これとは別に太平記には北条家の一門である塩田国時の家人に五郎重光が登場するが、惣領がどのような行動を取ったかというのはよく分からない。また、南北朝時代には宗家が尊氏に属す一方、駿河国安部城主となった分家は南朝方となっており、一族で所属を異にしたようだ。
 室町時代の伊豆は、尊氏の子基氏から始まる鎌倉公方の差配地となり、狩野氏も鎌倉公方に従っていた。時代は下り、自立を志向する鎌倉公方と、関東への影響力を強めたい足利将軍家との対立が次第に激しくなると、永享10年(1438)に4代公方持氏に対し幕府が討伐令を下して永享の乱が起き、持氏は翌年に自害へと追い込まれて鎌倉公方は一旦滅びてしまう。後に、関東豪族の要望もあり、持氏の遺児成氏が擁立されて再び鎌倉公方が復興されるのだが、やがて成氏も将軍家と対立した為、幕府は成氏に対抗すべく8代将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方として長禄2年(1458)送り込んだ。だが、政知は成氏の影響力が強い関東には入ることができず、伊豆国堀越に留まり、応仁の乱後の成氏と幕府の和解で伊豆一国のみを差配する堀越公方が成立した。これにより、伊豆の豪族である狩野氏も堀越公方に従ったと思われる。
狩野介茂光公保塁の跡の碑と中郭の土塁 明応元年(1491)の政知の病死後、堀越御所では家督争いが起き、長子茶々丸が後継者の潤童子とその母を殺害して家督を継いだが、明応2年(1493)に潤童子の同母弟義澄が次期将軍に擁立されると、これに関連してか、中央から今川家に派遣されていた伊勢盛時(北条早雲)が今川軍を率いて茶々丸討伐に乗り出した。この早雲の伊豆入りに対し、茶々丸は御所から逃亡するが、狩野家当主道一は関戸氏らと共に茶々丸を援けて北条氏に対抗したという。現地年表には、明応7年(1498)に狩野城開城とあり、関戸氏の深根城落城や茶々丸自害と同じ年であることから、道一は茶々丸の最末期まで従っていたようだ。
 その後、狩野氏は北条氏に従い、天文年間(1532-55)の末頃にはその本拠小田原へと移った。小田原衆所領役帳には、松山衆として771貫文を領す狩野介の名があり、代々狩野城主が狩野介を名乗ったといわれることから、これが本家筋だろう。その他では、大膳亮泰光が513貫文という大身で馬廻衆を務めており、一門から取り立てられた武将と思われる。また、この武将は、後に北条氏照に従って八王子城で自害した狩野一庵宗円と同一人物という説が有力という。
 これら、北条家臣として見られる大身の狩野一族と対照的に、北条氏に臣従してからの狩野城の事跡はほとんど知られていない。城の機能は維持されていたようだが、天正18年(1590)の小田原征伐の際にも戦場とならず、戦後に廃城になったとされている。
 狩野城は、北の柿木川、東の狩野川を天然の堀とし、南や南西方向は山塊に守られた城で、中世の山城の姿を色濃く残しており、規模としても大きくはない。構造としては、北東の出丸から順に南西方向へ東郭、中郭、水の手の谷筋を挟んで本郭、西郭と続き、中郭の南側に南郭がある。出丸の東側や西郭の西側にも平らな地形が連なっているが、これは当時のものか後世のものか判別は難しい。また、中郭と南郭以外は各郭がやや離れて存在しており、複合的な郭の構成とは言い難い配置である。
 遺構としては、各郭の間に堀切が切られ、各郭には土塁も健在で、なかなか見応えがあった。特に、西郭と本郭の間に二重堀切、西郭の西に大きな堀切があり、本郭や中郭も北や西方向に土塁が築かれていることから、西方向が大手だったのか、その方向への防備に統一性があって充実している。その本郭は、その名前から主郭の役割があるように感じるが、その南東の中郭のほうが高い位置にある上に削平地も広く、また城中の最高部は中郭の南の南郭で、この中郭と南郭が城の中心部分ではないだろうか。本の字は付いているが、単なる中央部というだけの意味かもしれない。
中郭から南郭へ通じる土塁状の通路 当初は存在を知らず、行く予定に入ってなかったが、国道沿いに大きな看板が出ていた為、それならと急遽訪れることにした。麓の駐車場も含め、城跡は非常に整備されており、遊歩道にはくずを固めたようなものが敷かれてふわふわした感覚で、非常に歩き易い。城跡自体も下草が刈られており、郭の表示もきちんとされていて縄張図と比較し易かった。散策している時に2組の家族連れと出会ったが、これだけ整備されているならば、安心して子供を連れて来れる城だろう。整備に尽力してくれた地元の方に頭を下げたくなる城だった。