蒲原城 所在地 静岡県静岡市清水区
JR新蒲原駅北西700m
区分 山城
最終訪問日 2013/10/14
蒲原城址碑の建つ南郭 海岸に沿って走る東海道と富士川の川筋の街道を押さえる、交通の要衝にある城。
 蒲原城を築城したのは誰なのか、はっきりとしていないが、一説に土豪蒲原氏であるとも、駿河守護の今川氏の一族であるともいう。
 蒲原氏の出自は、入江氏や天野氏系とする系図があるほか、相良系図にも見え、それぞれ蒲原清実や蒲原清貫の名がある。貫を實の誤記とすると、共通して、祖は藤原南家の出であること、清実という諱であったことなどは正しいようだ。そして、源平合戦では源氏に味方したようで、頼朝の富士の巻狩にも蒲原弥五郎の名が見える。建武の新政を経て南北朝時代になると、蒲原氏は駿河の南朝方の中心勢力のひとつとなるが、足利一門で駿河の北朝方の中心となった今川氏に押され、南北朝前期頃には没落してしまったようだ。この藤姓蒲原氏が蒲原城一帯を所領としていたのは間違いないのだが、その頃にこの蒲原城があったのかは不明である。
 蒲原氏の没落後、蒲原一帯は、駿河守護今川範国の三男氏兼が支配し、蒲原を称したというが、それは氏兼の孫氏頼の代だったともいわれ、定かではない。いずれにしても、今川庶流の源姓蒲原氏が蒲原城周辺を支配していたようだ。ただ、この蒲原氏は将軍家に仕えて在京しており、城には城代が任命されていたようで、城代の牟礼範里が、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が対立した永享の乱に関連して、永享11年(1439)に高山玄光と由比左源太率いる一揆勢に囲まれたものの、一揆の大将2名を討ち取ったということが史料からはっきりしている。この時の軍功について、範里は駿河守護家の今川範忠から書状を受けていることから蒲原氏の家臣ではなく、また、範里の父貞高は、今川貞世(了俊)に仕え、蒲原城代に任ぜられたともいわれていることから、蒲原氏は所領の管理を今川宗家に任せていたのかもしれない。
蒲原城鳥瞰図 その後、約1世紀の期間を挟んで天文4年(1535)に蒲原氏満が京より戻り、蒲原城に子氏徳を入れたというが、一方で同13年(1544)には飯尾豊前守が城番として見える。この武将は、時代的に考えて曳馬城主飯尾乗連のことかと思われ、第二次河東一乱の際に在番したものだろう。この後、永禄4年(1561)に佐竹高貞の名が見えるが、前年の桶狭間の合戦で氏徳が討死しており、子徳兼は遠江の所領に移ったとみられる為、蒲原城は正式に今川家の東の守りとして城代が任命される城となったのではないかと思われる。
 高貞在番の頃は、今川家は北条家及び武田家と所謂三国同盟を結んでおり、富士川下流域は平穏な時代であった。しかし、信濃経略が一段落した武田信玄は、目を南に向け、永禄11年(1568)に駿河へ侵攻し、三国同盟は崩壊することとなる。今川家の当主氏真は、これに対抗しようとしたが、寝返る者が続出して軍を保てず、掛川城へと逃れる一方、今川家を支援した氏真の舅北条氏康が翌年早々に駿河へ援兵を出した為、蒲原城は北条氏の管理下に置かれた。
 北条支配下では、北条幻庵の子綱重(氏信)が城将に据えられ、綱重は城を大改修したが、同年12月6日に武田勝頼や同信豊、山県昌景ら武田軍の襲来で城は落ち、綱重も討死してしまう。この時の籠城兵は1千余であったが、綱重を始め、綱重の弟長順ら主だった将が悉く討死しており、相当激しい戦いだったようだ。ちなみに、綱重は真田幸隆ら真田勢に討ち取られたという。
 こうして蒲原城は武田氏の城となり、武田氏は蒲原衆を組織したとされることから、蒲原城を拠点として在地豪族を城に紐付けして支配したと見られ、穴山信君の江尻領のような譜代家臣による支配形態ではなかったようだ。その後、天正10年(1582)の信長による甲州征伐の際、蒲原城は一説に朝比奈信置が籠もって落城、討死したとも伝わるが、信置自身の最期が不明であり、詳細は知れない。
 武田氏滅亡後は、駿河は徳川氏が領したことから徳川家の属城になったはずだが、城主などは伝わっておらず、天正18年(1590)の小田原の役の際に家康が着陣したのを最後に廃城となった。恐らく、家康の関東移封後に駿府へ入城した中村一氏が、領内整理で城として活用しなかったのだろう。
逆茂木や櫓が復元されている善福寺郭 蒲原城は、北から伸びる蒲原丘陵先端に独立した峰を持つ城山層を城郭化したもので、北側は比較的なだらかながら、大手となる南側は非常に急峻な山容である。構造としては、山頂部の本丸に相当する南郭と、そこから一段下がる北側の北郭とも呼ばれる善福寺郭が主郭部で、大手側には二ノ郭、大手郭という郭群が2つあり、搦手には大空堀を挟んで東郭という出丸があった。また、東側の視界が開けない為、現在の御殿山広場の場所に交通監視の為の狼煙場があったという。
 新蒲原駅から城山配水場への急な坂道を上ると、鞍部となる手前に駐車スペースがあり、そこから城への遊歩道が出ている。こちらが搦手で、現地鳥瞰図から考えると、遊歩道の入口付近が東郭だろうか。そこからしばらく山道を登ると、善福寺郭とその北側の腰郭が見え、土塁や石垣が明確に残っている。そして、善福寺郭へ入ると、櫓や逆茂木が復元されており、そう有名な城ではないが、史跡公園としてしっかり残していこうというのが感じられた。善福寺郭から北側へ進むと、南郭の間に空堀があり、ここは堀底道で、発掘調査では焼土層や陶磁器片が見つかったという。武田軍による攻撃の際の火災の跡と思われ、遺構的にもこの空堀が城一番の見所かもしれない。本丸に相当する南郭には、現在は八幡社が祀られており、桜も植えられていた。ここからの景色はかなり良く、桜の季節には名所として賑わうそうだ。ただ、この南郭から南側へ下りる遊歩道もあったのだが、ひどく藪化しており、二ノ郭などへは行けなかったのは残念だった。また、一番南側の大手口の辺りは、東名高速の建設に伴って破壊されてしまったという。それでも、主郭部分は非常に良好に残っており、訪れておいて損は無い城である。