花倉城 所在地 静岡県藤枝市
新東名高速藤枝上りP.A.北西2.6km
区分 山城
最終訪問日 2016/5/21
花倉城説明板 花倉の読みとしては、日本郵政の地名読みで現地がハナグラとなっている為、ハナグラ城が正解かと思われる。
 築城年代は不明だが、今川家2代基氏の五男で駿河と遠江の守護に任じられた範国が、葉梨荘を与えられたのがこの地と今川家の関わりの最初とされ、それは建武4年(1337)ともその翌年ともいう。範国の駿河守護職就任にも同じくこの両年の説があり、守護就任に伴って宛がわれたものだろうか。ただ、建武5年説に関しては、その正月に起こった美濃国青野原での合戦の功で宛がわれた可能性も考えられる。いずれにせよ、これに伴って葉梨には地頭代として松井助宗が入部しており、南朝が優勢だった駿河ではあるが、きちんと支配の実態はあったようだ。
 その後、文和2年(1353)に範国の子範氏が葉梨荘に入部し、居館を築くと共に詰城として花倉城を築いたという。この頃、まだ父範国は健在であったが、引付頭人などを務めたことから主に在京していたと思われ、本拠移動は範氏の主導かと思われる。また、それまでの本拠であったといわれる岸城や大津城が、島田市地域という言わば駿河の入口であった事を考えると、この東進は駿河の実効支配がある程度進んだと見ることができるだろうか。以後、曾孫範政が応永18年(1411)に駿府に入部するまで、一帯が今川家の本拠として機能した。
花倉城本丸 次に花倉城が歴史に登場するのは戦国時代で、範政から4代の孫氏輝が、家督相続10年ながら天文5年(1536)3月に24歳という若さで早世したことから、その弟達の間で家督争いが起こった時である。この争いは花倉の乱と呼ばれ、側室福島氏の子で三男の玄広恵探と、正室寿慶尼の子で五男の栴岳承芳の対決となった。ちなみに、花倉の乱の名は、玄広恵探が花蔵殿と呼ばれていたところからという説と、この一帯の地名から取られたという説がある。勘違いし易いが、この頃の一次史料には城名が葉梨城や葉梨の城と書かれており、城の名から来ているというわけではない。
 この乱において、玄広を推していたのは当然ながら生母の一族である福島一門で、玄広恵探派の筆頭である福島越前守は、平和的解決を望む寿桂尼の説得を拒否し、更に翌日未明に今川館を強襲したが、これは栴岳承芳派に撃退された。しかし、玄広恵探派はそのまま花倉城、方ノ上城を拠点とし、抵抗の意思を示すのである。この為、寿桂尼らは武田家や北条家からの支援を取り付け、まず方ノ上城を落とし、玄広恵探の籠もる花倉城へ迫ると、劣勢に陥った玄広恵探は城を支えることができず、やがて間道があったと思われる西方向へ落ち延び、普門寺で自刃したという。そして、そのまま花倉城は廃城となった。
 城は、典型的な中世的山城で、烏帽子形山系の東部の峰という山深い地勢がそのまま防御力となっており、二ノ丸と本丸、及びそれに付随する段郭程度しか郭らしい郭は無く、居住空間をあまり考えない詰の城というのがよく解る。また、防御設備の土木工作もあまり施されていない為、規模的にも構造物的にも、小さくまとめられた城と言えるだろうか。
花倉城二ノ丸 登城口から登り始めると、すぐに土橋が見え、その横には削平地があり、入城の際に通路を抑制する何らかの施設があったのだろう。そこを過ぎ、もう1本の土橋と堀切を越えると坂道となり、本丸下の帯郭、二ノ丸、そして本丸と次々に現れてくる。二ノ丸は長径20mほどの楕円形で、南側に堀切があるほか、縁辺には土塁も残っていた。二ノ丸と本丸の間は堀切が穿たれ、堀切はそのまま竪堀となって下に続いている。その上の本丸はやや細長い形ながら端に櫓台と思われる盛り上がりがあり、その先に1段下がって削平地と、武者走りを挟んで小郭があった。
 国道1号線から城へ向かうには、藪田西I.C.から北上し、葉梨小学校北側の信号を左に折れ、すぐに見える花倉川沿いの道を北西方向へ進む。途中、道なりに進むと花倉川が分岐し、半谷川沿いの道となるが、そのまま進んでいくと溜池を越えたところで城の案内が現れ、そこから延々と茶畑の中を上って行くと登城口に到着する。これを当時の人は足で登ったと考えると、城がいかに峻険な立地に在ったかということを実感せずにはいられない。この城の登城口は舗装道の終着点となっており、そこには駐車スペースが2台分ほど用意されているのだが、そこまでの道が茶畑用の農道である為、軽トラ1台分の幅しか無い上にガードレールも無い所がほとんどで、車で行くならすれ違い等ではかなり注意が必要になるだろう。