深沢城 所在地 静岡県御殿場市
東名高速足柄S.A.北西1.4km
区分 平山城
最終訪問日 2013/5/19
深沢城址碑 深沢城としては、今川氏親の築城が最初だが、それ以前には葛山氏の庶流深沢氏の居館があったと推定されている。葛山氏は、鎌倉期から駿東に御家人として勢力を張っており、城から南へ10kmほどの葛山付近を本拠としていた。室町時代は将軍直属の奉公衆で、隣接する今川家の強大化により次第に今川家臣化していくのだが、全盛期にはここに一族を分出するだけの力があったのだろう。
 深沢城の築城時期は不明だが、氏親の治世、つまり実質的に家督を継承した15世紀末から死没した大永6年(1526)までの間なのは間違いない。具体的には、11代将軍義澄の命でその生母円満院を殺害した伊豆の足利茶々丸討伐に後の北条早雲である伊勢盛時と協力して当たった際、堀越御所から逃亡した茶々丸の探索を名目に甲斐へ出兵した早雲の動きに関連して明応4年(1495)前後に築城されたか、後の永正年間(1504-21)頃に武田信虎と争って幾度と無く今川軍が甲斐へ侵入していた時期に築かれたかのどちらかだろう。
 その後、今川家が武田家と和睦すると北条家がこれに反発するなど、情勢は複雑化するが、それぞれの当主が代替わりした今川義元、武田晴信(信玄)、北条氏康の時代に三国同盟が成立し、深沢城もこの時代はやや重要性が薄れたと思われる。しかし、永禄3年(1560)に義元が桶狭間で信長に討たれると、その子氏真は求心力を維持できず、これを見た信玄は上杉謙信との対決が一段落したことから、駿河への領土欲を剥き出しにしていく。こうして信玄は、今川家から独立した家康と共同で、永禄11年(1568)末に今川領へ侵攻したのである。
深沢城本丸全景 この侵攻に対し、氏真は対抗しようとするが、もはや今川家中は寝返り続出で統制が利く状態ではなく、本拠地駿府すら維持できなくなっており、結局は朝比奈泰朝の掛川城に移って籠城した。しかし、この侵攻に氏真の舅氏康が反発し、翌年に支援の為に駿河東部へ氏政を送り、興津を望む薩た山に布陣させ、武田軍を牽制して一旦は退却させている。また、この進出に伴って駿東は北条氏が押さえることとなり、深沢城も北条氏に属したようだ。
 この後、武田軍は再度伊豆や駿河へ侵攻し、8月からは武蔵へ侵攻して小田原城を包囲するなど、北条方に対する威示行動が増えるが、これは駿河支配を確実にする為であったとの説もある。実際、信玄は年末から翌永禄13年(1570)初めに掛けて3度目の駿河侵攻を行い、駿河支配の地歩を固めていった。この年に武田家臣駒井政直が深沢城代に任じられており、深沢城もこの過程で奪取されたと見られる。
 だが、北条氏も手をこまねいていた訳ではなく、同年4月には大軍を動員して深沢城を奪い返し、家中随一の猛将北条綱成を城将として据えた。綱成を城将としたことに、北条家の危機感と城の重要度というのがよく解る。これに対し、信玄も同年11月に大軍で攻囲したが、名将綱成の采配と、その武名を恐れた士卒によって攻城は進まなかった。そこで信玄は、翌年正月に矢文で開城を迫ったのだが、これが有名な深沢城の矢文で、その中で滔々と、北条氏に対する武田の功、今川討伐の正当性を語り、最後には小田原への使いを邪魔しないので後詰決戦をしようではないかと恫喝に近い文言で結んでいる。戦国大名らしく、強気と大義名分の塊のような文で興味深い。この降伏勧告後も、綱成は抗戦を続けたが、信玄が金堀衆を動員して城塁を崩し始めると綱成も戦況の不利を悟り、小田原からの援軍を待たずに遂に16日に開城して退去した。
 戦後、城には再び駒井昌直が入城したが、政直は天正10年(1582)の武田氏滅亡の際に城に火を放って退去し、後に徳川家に仕えて武田旧臣の代表者的な立場を務めている。武田家滅亡後、駿河を得た家康が北条氏との境目の城として領有し、同12年(1584)の小牧長久手の合戦の際に三宅康貞が城主となったが、同18年(1590)の北条氏の滅亡と戦後の家康の関東移封によって役目を終え、廃城となった。
はっきりと残る三日月堀 城の構造は、馬伏川と抜川の合流部に突き出した丘陵を城地としており、合流部に最も近い部分を本丸、そこから現地縄張図に無い馬出を挟んで二ノ丸、更に馬出を挟んで三ノ丸と続く。ただ、標高はさほど無く、比高10mほどで、三ノ丸の南側は平坦な地形が続いており、要害の地にあったわけではなかった。
 城跡は、全体的に開墾されて田地となっているが、土塁や空堀などは比較的原型を留めており、散策すれば十分に城の規模や構造を把握することができる。特に本丸から二ノ丸へ続く部分の空堀や馬出状の地形などは明確で、開墾されている為に視界も広く、縄張が把握しやすい。三ノ丸は道路で分断されているが、三日月堀が非常にはっきりと残っており、一見の価値がある。また、その反対側は農家の方の住宅にもなっていたが、その前の空堀に土橋のように家への通路が架けられており、城跡の雰囲気と合っていて個人的には妙に羨ましかった。
 一説に、現地縄張図の本丸は城の中心ではなく、二ノ丸が中心であったともいう。何故なら、本丸と二ノ丸の間の馬出が二ノ丸を守るような形であることや二ノ丸が城内最高部となるからである。ただ、地形的には突端部は川の合流点が堀となって防御がし易く、また、郭も広い。そして、川に削られた丘陵部では標高が低くても突端部に本丸を置くケースがあることを考えると、どちらにも理が有るように思える。もしかすると、当初は突端部に本丸が築かれ、拡張の過程で主郭機能が移されていったものの、名称だけはそのままにされたのかも知れず、また、本丸の郭の広さから、戦時的な意味よりも城主や一族の居住スペースという意味での本丸だったのかもしれない。当時にどのような運用のされ方だったのかは不明で、この辺りは想像力を掻き立てる部分だろうか。