江尻城 所在地 静岡県静岡市清水区
静岡鉄道入江岡駅北650m
区分 平城
最終訪問日 2013/12/26
江尻城案内板 武田家の駿河支配の拠点として築かれた城。
 江尻城が築かれた背景には、武田信玄の駿河侵攻がある。甲斐の武田家と駿河の今川家は、信玄の父信虎の代から誼を通じ、信玄の代には北条家を含めた三国同盟を形成した。しかし、永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の合戦で信長に討たれ、信玄の信濃経略も一段落すると、信玄は海を求めて南へと目を向けるようになる。こうして、永禄11年(1560)12月、信玄は今川家と正式に手を切り、駿河へと侵攻した。
 義元の子氏真は、これに対抗して迎撃の態勢を取ったが、今川家臣の間には既に信玄の調略の手が伸びており、軍の体裁を保てぬまま氏真は掛川城へと落ち延び、事実上今川家は崩壊してしまう。こうして、難なく駿河中央部を制した信玄は、東西の北条氏と徳川氏に対抗すべく城の整備を行っていくのだが、それがこの江尻城であり、興津の横山城であり、藤枝の田中城であった。
 城は、縄張を馬場信房、奉行を今福和泉守として翌12年(1569)正月から築城工事が始められ、最初は武田信光と数百の兵が入って守備したといい、この年か翌年には山県昌景が正式に城代として任命されている。ただ、築城工事自体は、元亀へ改元する数ヶ月前の永禄13年(1570)2月にも続けられていたという。その後、昌景が天正3年(1575)の長篠の合戦で討死すると、横山城に在った穴山信君が後任として入城しているが、信玄からの信頼が厚かった昌景や、武田親族衆筆頭である信君が据えられたというところを見ると、武田家の駿河支配において、江尻城が非常に重要視されていたことが解る。
 信君は、甲斐の河内領を支配する武田家臣であったが、河内領が武田家から与えられたものではなかった為か、やや独立的な領国支配を許されていた。その為、信君がこの城を中心に支配した駿河の領域は江尻領と呼ばれ、河内領同様やや独立的な領国運営が行われたと一般にいわれているが、その見解には諸説があるようだ。
 この穴山時代、城は信君の手によって天正6年(1578)に大改修を受け、望楼や城下町も整備され、武田家の本格的な支配拠点となった。しかし、長篠の合戦から7年経った天正10年(1582)2月、織田徳川連合軍が、木曾義昌の寝返りをきっかけとしてついに甲州征伐に乗り出すと、信君自身は取次を担当していた家康を通じて織田家に寝返り、本領の安堵と武田惣領を子勝千代に継がせることを許されている。こうして、武田家滅亡という動乱期を乗り切った信君であったが、同年6月の本能寺の変の際に運悪く京に滞在しており、帰郷を急ぐ途中で土民に襲われ、落命してしまった。
 穴山家の家督は、家康によって子勝千代の相続が許されたが、幼少ということもあって統治は家康の家臣団が行い、実質的に徳川領と一体的に支配されたようだ。そして、天正15年(1587)の勝千代早世によって穴山家は断絶してしまい、正式に江尻城は徳川領となったのである。この頃の城番としては、本能寺の変直後には本多重次が在城していることが見え、そのほかに松平家忠や天野景康も城番を務めたという。その後、天正18年(1590)の小田原の役の後に家康が関東へ移封となり、代わって駿府に入った中村一氏の家臣横田隼人が入城したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に中村氏が加増転封となり、翌年に城は廃城となった。
 城は、巴川の蛇行部分の北東側にあった本丸から、同心円を描くように東二ノ丸と西二ノ丸、三ノ丸を設け、その郭の間を巴川の水を引いた内堀と外堀で画すという構造で、武田氏の城らしく3ヶ所の丸馬出があったという。だが、現地復元図に馬出は確認できなかった。遺構は、大正頃まで残っていたというが、実際どうだったのだろうか。
小芝城と記された江尻城の城址碑 現在の城跡は、残念ながら市街地化で遺構と呼べるものは全く無い。堀の痕跡も無く、唯一巴川が雰囲気を残すのみだが、その巴川も河川改修による直線化で、往時の流れとは違う。とは言え、痕跡が全く無いわけではなく、本丸跡にある清水江尻小の隅に城址碑があるほか、周囲の道などに説明板が幾つかあり、数は少ないながら城の痕跡を辿ることが可能だ。ぶらっと現地を散策してみると、小学校に本丸門というのがあったり、二ノ丸町についての説明板や櫓という地名を見付けたりと、かつての姿を偲べるものがあり、遺構は無くとも不思議と散策を楽しめた城だった。