足柄城 所在地 静岡県小山町・神奈川県南足柄市
JR足柄駅東南3.1km県道78号線沿い
区分 山城
最終訪問日 2013/10/12
足柄峠の頂上と城址碑 箱根北側の峠である足柄峠にある城。静岡県と神奈川県の県境に跨る城であるが、主郭部が静岡県側に造られている。
 足柄峠は、かつては足柄坂と呼ばれ、平安時代には箱根の山塊を越える東海道の主街道だった。その為、後の世で箱根関の東を関東と呼んだのと同じく足柄坂の東が坂東と呼ばれ、関東地方の土着武士達を坂東武者と呼んだ。延暦21年(802)から翌年に掛けて、富士山の延暦噴火によって足柄峠は一時期通行できなくなり、その間に箱根路が開削されたが、これ以降も足柄峠は主街道であり続け、昌泰2年(899)には盗賊監視の為に関所が置かれている。この関所が、峠を拠点化した最初の施設と言えるだろうか。しかし、関所は常設ではなく、その後は設廃が繰り返されたという。
 鎌倉時代に入ると、海側の鎌倉への最短路となる箱根路が重視され、次第に足柄峠は脇街道化したが、南北朝時代の開始となる建武2年(1336.1)の箱根竹ノ下の戦いが足柄峠の西麓で繰り広げられたように、重要な峠であることに変わりは無かった。
 足柄峠に城が築城されたのは、時代を下った戦国時代の北条氏によってであるが、その時期ははっきりとしていない。史料からは、天文24年(1555)に氏康がこの城の普請を命じたことが判っているが、前年に甲相駿三国同盟が成立しており、境の城を新たに築城する理由が無く、城はそれ以前から在り、単に補修を命じただけと考えられている。築城時期としては、武田家と対立していた北条氏綱が、今川義元と武田信虎の接近を駿相同盟の破談と見なして駿河に侵攻した天文6年(1535)の河東一乱の頃と考えられ、同年か、それ以降数年の間の事とするのが有力なようだ。
足柄城本丸 その後、武田家が信虎の子晴信(信玄)に、北条家が氏綱の子氏康に代替わりをすると、前述のように甲相駿三国同盟が成立し、三家の領境は安定の時期を迎え、足柄城の重要性も低くなった。しかし、信玄が永禄11年(1568)に駿河に侵攻して三国同盟が破綻すると、義元の子氏真を支援する氏康が駿河へ派兵し、駿相国境は再び緊張に包まれることとなる。この時期、城の重要性も増し、永禄12(1569)から翌々年に掛けて改修が施されたほか、麓の深沢城を信玄に包囲された猛将北条綱成がこの城へと撤退して在城したこともあった。
 城には、氏康の子とも養子ともいわれる氏忠が天正13年(1585)頃まで城主として在城したが、下野の佐野氏の名跡を継いで唐沢山城へと移った為、翌々年に同じく氏康の子とも養子ともいわれる氏光が城番となり、秀吉との決戦を想定して北条領各地の城と同様に足柄城も大規模な改修を受けている。この工事は小田原の役の直前まで続き、合戦の直前にようやく現在の姿になったという。そして、小田原の役では、城将として氏忠も戻り、決戦に備えたが、箱根路の山中城が1日で陥落した為に主力は小田原城へ撤退し、守将依田大膳亮ら少数の守備隊も徳川家臣井伊直政の攻撃で数十名を討たれ、開城、退却した。そして、同年に城はそのまま廃城となっている。
 城の構造は、峠頂上部を勾配を持ちながら削平して本丸とし、そこから駿河側の北西尾根にそれぞれ空堀を介して五ノ郭までを連ね、本丸から現在の峠道を挟んだ反対側にも郭があった。また、尾根各所にも砦を設けており、現在の判明している範囲よりもかなり大規模な城だったとされる。また、現地で石垣の痕跡はほとんど無かったが、石垣も相当使われていたという。
 足柄城は富士山の眺望が良い所として知られており、訪れた日も天気が良くて富士山が良く見え、家族連れや自転車乗り、バイク乗りなども、山奥の城という割に多く訪れていた。アクセスが良い上にきちんと公園として整備され、芝生が敷かれているので、気軽に訪れ易いのだろう。ただ、車道を跨いで架けられている橋が安全の為か通行禁止となっており、向かいの郭には入れなかった。
足柄城本丸より富士山の眺め 城として見ると、山中城と同様、平坦部分にも傾斜のある場所が多かったのが印象的で、やはり居住に向かない防衛拠点という性格が強いようだ。城の範囲は、整備されている以外にも相当広範囲に及ぶということなどで、城好きとしては、今後発掘調査が行われ、本格的に整備されることを期待したい。ちなみに、年に1回、この足柄峠で静岡県と神奈川県で綱引きを行い、その勝者が1年間この城の本丸を領地として宣言できるという面白い祭りも行われており、訪れた時は静岡県領になっていた。