天方本城 所在地 静岡県森町
森町役場北東3.2km天方小後背
区分 山城
最終訪問日 2016/5/21
天方本城説明板 天方9ヶ村を支配した天方氏の居城。
 天方氏は、首藤山内氏の系で、天方に住して地名を名乗ったという。首藤山内氏は、藤の字から判るように藤原氏を称しており、その祖は藤原秀郷とも藤原師尹ともいわれるが、藤原氏は仮冒で実際は守部氏だったという説もある。いずれにせよ、資清の時に主馬首の官職から首藤を称して源頼義に従い、その子資通が頼義の嫡男義家の下で頭角を現した後、その曾孫俊通の時に相模国鎌倉郡山内荘を領して山内を称した。その後、源氏の没落によって俊通の子経俊が一時は平氏に属していたが、母が頼朝の乳母であったことから後に栄達し、山内氏は各地に所領を得たようだ。
 その後、宗家筋は鎌倉時代末期に備後へ下って勢力を固めているが、これとは別に地頭となっていた遠江国飯田荘に下って土着した庶流が天方氏である。その時期は14世紀後半とされ、土着した人物は通秀という。ただ、この頃にはもう飯田荘全体を掌握するほどの力はなかったと見られ、初期は吉川流域の鍛冶島にある城ヶ島を根拠地としており、次第に勢力を蓄えて南の平野部へと進出していったようだ。或いは、初期の領地が飯田荘でも僻地であることから、飯田荘に入部した庶流ですらなく、庶流の庶流、更に飛躍すれば山内氏に仮冒した在地土豪であるのかもしれない。
天方本城本丸の策平地 このように、天方氏の初代で天方本城を築いた人物は通秀とされるが、これとは別に、道美なる武将が応永年間(1394-1428)に築いたという説もあり、両者は年代的に合致する為、同一人物であった可能性がある。また、寛政重修諸家譜には通秀の次代が通良とあり、道美は同じ読みができる為、この2代目の事を指している可能性も考えられるだろうか。
 以降、室町時代の事跡は詳らかではないが、5代通季の頃である文亀元年(1501)には、遠江を舞台に遠江守護斯波義寛とかつての守護家で遠江回復を目論む今川氏親の間で合戦が行われ、天方本城は、斯波氏の要請で二俣に侵攻した信濃守護小笠原貞朝の軍勢に奪われている。この時、通季は城を放棄して今川勢に合流したようで、後に本間宗季や久野宗隆ら今川勢と共に籠城する小笠原勢を攻撃し、城を奪回したという。この事から、天方氏はこの頃既に今川家に属していたことが判り、その臣従時期は、今川軍を氏親の叔父伊勢盛時(北条早雲)が率いた明応3年(1494)から始まる侵攻の頃と見られる。
 戦後、通季は城の脆弱さを痛感し、より堅固な城を三倉川を挟んだ南に築城したという。これが白山城なのだが、白山城の事跡は全く不明で、その北麓の台地が城代の屋敷であったという伝承も伝わる以外は、どのように運用されていたかは知れない。また、白山城築城後の天方本城の存廃も不明である。
本丸から西へ延びる尾根筋にある堀切 城跡へは、天方小学校横の八幡社の脇から急坂ながら農道が出ており、茶畑の中を通って城の西南に出る事が出来るが、その突き当たりに駐車スペースは無い。舗装道の終わりから小さな案内を頼りに山へ入ると、最初は右手に迂回して南尾根へと取り付き、しばらく登ると城に到着する。
 城には、本郭、副郭、西郭、井戸郭、馬場平という削平地と、それに付随する段郭や腰郭があるようだが、現地に案内表示等は無い為、散策しながら推測するしかない。本丸は、恐らく南北に伸びる細長い郭がそれで、最高部は小さな段差で3段に分かれていたと思われ、南東側にはやや低い方形の段が付属し、北側からは北西方向へも削平地が伸びていた。その先は明確な堀切が1条あり、更に小さな削平地と櫓台らしき盛り上がりがあるが、ここが西郭だろうか。本郭と思われる最高部の西側には、谷にせり出すように1段低い郭があり、ここが副郭に相当するのかもしれない。地形的には、大きな谷筋はこちら側だけであり、谷の両側に郭があることから、この西から西南にかけての谷筋に大手道が伸びていた可能性が高そうだ。ただ、山自体は南側や西側の傾斜がそれほどではなく、尾根伝いに攻略も可能だったと思われ、規模の小ささもあって要害というほどの雰囲気は無かった。