天方城 所在地 静岡県森町
天竜浜名湖鉄道戸綿駅北東2.5km
区分 山城
最終訪問日 2016/5/21
天方城本丸と城址碑 天方氏が14世紀の末期頃に築いた城も当時は天方城と呼ばれており、区別してそちらを天方本城、こちらを天方新城とも呼ぶ。
 天方9ヶ村を支配した天方氏は、15世紀末期の今川氏の遠江への伸張以降、今川家臣として活動していた。しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で当主義元が信長の急襲によって討たれると、跡を継いだ氏真は家中を御し切れず、今川家の支配は退勢となっていく。そんな中、今川家中の有力国衆として臣従していた松平元康は、今川家の城代が治める城となっていた本拠岡崎城を回復し、やがて家康と改名して今川家から自立した。こうして外交の独立性を取り戻した家康は、信長と結んで西を安泰とし、東へと進撃して三河を統一するのである。
 天方城の築城時期は定かでは無いが、背景にはこのような情勢があった。そして、永禄11年(1568)末には、松平改め徳川軍が遠江、武田軍が駿河の今川領へそれぞれ同時に侵攻するのだが、同年頃に城は天方通興によって築城されたと推測されている。ただ、家康が同8年(1565)に今川家の三河の拠点であった吉田城を攻略し、翌年までに三河統一を完遂させている事を考えると、築城時期はもう少し早かったのかもしれない。
 天方城築城後、通興は相変わらず今川方であったが、翌同12年(1569)には飯田城の同族山内氏と共に徳川軍の部将榊原康政、天野康景、大久保忠隣らの攻撃に遭って二ノ丸まで攻め込まれ、6月19日に降伏したという。尚、この約4ヶ前に氏真の籠もった掛川城が開城しており、その影響もあったものと思われる。
天方城縄張図 戦後、通興は家康に赦されて徳川家臣となったが、それも束の間、翌元亀元年(1570)には武田家の調略に応じて軍備を進めたとして再び攻撃を受け、再降伏した。更に同3年(1572)秋には、武田信玄の西上に伴って圧迫を受け、通興は戦わないまま降伏し、城に同じく旧今川家臣の久野宗政が置かれている。だが、信玄は上洛を果たせぬまま、三河国野田城を攻略した所で行軍を停止し、翌同4年(1573)4月12日に死去してしまう。この武田軍の遅滞により、三方ヶ原の合戦で敗れていた家康も息を吹き返し、3月には大久保忠隣、渡辺守綱・政綱兄弟に天方城を攻めさせ、3日の戦闘で降伏させた。この際、宗政は甲斐に落ち、通興は赦されている。また、遠江国風土記傅には、後に武田家が城を再び押さえ、翌天正2年(1574)3月に家康が攻略したとあるようだ。ただ、同じ3月で攻城日数も3日と同じである為、ひとつの戦いが2回に分けられて伝わったものかもしれない。
 その後、天正2年(1574)4月に犬居城を攻撃した家康が悪天候と兵糧不足の為に撤退する際、待ち伏せに遭って徳川方は敗北を喫し、一旦逃げ込んだ三倉城からより堅固な天方城へ移ったという話が伝わる。ただ、この一連の攻防は、天方本城の話なのか天方城の話なのかが不鮮明で、その辺りは頭の片隅に留め置く必要があるだろうか。
 以後の天方氏は、道興の子通綱が、家康の嫡男信康が信長の命で自刃させられる際、服部正成と共に検使役を命ぜられ、介錯できなかった正成に代わって介錯をしたことが見える。だが、それに対する自責の念から高野山に上って出家し、後に家康の次男結城秀康に召し出され、子孫は越前福井藩士となった。一方、通興は家を存続させるべく外孫である青山通直を迎えて家を継がせ、その子孫は旗本となったが、やがて青山に姓を戻してしまっている。尚、天方城の事跡はこの頃には既に不明で、遅くとも家康の関東移封後には廃城になっていたようだ。
明確に残る内堀 城の構造は、戦国末期の城らしく近世的で、方円形の本丸の三方に内堀を穿ち、内堀を介して北西側に二ノ丸があるというシンプルな縄張をしており、説明文から考えると更に外堀を介して防御線となる外郭もあったようだ。全体的に見れば、方形よりも円形を基本とした形状で、新府城に似た雰囲気もあり、いずれかの攻防の際に武田氏による改修があったのではないだろうか。
 現在の城跡は、城ヶ平公園として整備されており、戸綿駅からのハイキングコースにも組み込まれているようで、ハイカーの姿も多い。本丸には城址碑や東屋があり、二ノ丸の大部分が駐車場になっているほか、埋もれて原型を留めていないものの外堀の痕跡も認められる。それに加え、本丸北東側と南側にもいくつか削平地が確認でき、主郭に付属する腰郭や段郭があったようだ。ただ、外郭がどの辺りになるかというのはよく判らなかった。また、縄張図に四阿とある場所はやや低くなっており、往時は搦手の虎口があったのではないだろうか。
 城へは、麓から要所要所に案内があり、距離はそこそこあるものの茶畑の中の農道を通って上がって行く為、迷うことは無いだろう。城ヶ平公園内は、整備も行き届いて心地よく散策でき、内堀や土塁がはっきりとしている。そして、南側に建てられた展望台からは、森町の街並みや遠州灘が見渡せ、非常に気持ち良かった。ハイキングコースの終着点として設定されているのも、頷ける景色である。