神西城 所在地 島根県出雲市
JR出雲神西駅南800m
区分 山城
最終訪問日 2011/10/23
本丸の神西城址碑と説明板 尼子氏の本拠地だった月山富田城の支城、尼子十旗のひとつで、神西氏累代の居城。
 神西氏は、小野篁の末裔という小野高通が、貞応2年(1223)に鎌倉からこの地へ入部して城を築き、地名を名乗ったことに始まるという。小野氏は武蔵で勢力を扶養し、横山党や猪俣党などの武士団を形成して武蔵七党の一角を担ったが、高通もその末裔のひとりだったのだろう。時期的には承久3年(1221)の承久の乱直後であり、その恩賞による入部と思われる。
 その後、神西氏はこの地を拠点にして出雲守護の佐々木京極氏に従い、その守護代であった尼子経久が京極氏に取って代わって台頭するとこれに属し、綿々と勢力を培った。前述のように尼子十旗に数えられたということは、相応の勢力を持ち、相応の待遇を受けていたはずで、その証拠に経久の頃の分限帳には本領の他に美作で4千6百石余を知行していた事が見える。また、出雲国の西端にあたる神西城は、有力国人の居城というだけでなく地勢的にも非常に大事な城で、天文10年(1541)から翌年にかけて大内義隆が月山富田城を攻めた際、事前の軍議で出雲に攻め入る経路として赤穴城と共に神西城の名が名指しで示されたように、敵方からも重要視されていた城であった。
 この月山富田城攻めの際、当主の元通は大内氏に寝返った他の国人衆とは行動を異にし、尼子氏に忠節を尽くしたようだ。しかし、経久の孫晴久の晩年には、尼子家が急速に斜陽となり、その子義久の時には毛利元就によって再び月山富田城が包囲される。この出雲攻略の過程で、神西城も落城したようだが、詳しい落城年代はよく判っていない。月山富田城攻囲の拠点となった鳶ヶ巣城が同5年(1562)、月山富田城の海側の支城である白鹿城が同6年(1563)に陥落していることから、鳶ヶ巣城の西南にある神西城も同時期かそのやや前に落ちたと考えるのが妥当だろうか。だが、この落城時に元通はすでに主力を率いて月山富田城に在ったのか、それとも城から落ち延びたのか、永禄9年(1566)の月山富田城開城の前年に城の大手門を守備していたことが見え、本拠を失いつつも尼子氏の最末期まで忠節を尽くしたようだ。その一方で、白鹿城合戦の敗戦で毛利方に一旦臣従したともいわれており、この頃の事跡や時系列はどうも不鮮明である。
神西城周辺図 この籠城戦では、長引く戦の中で多くの諸将が毛利氏に降っているが、その中に元通も含まれていたようで、なんとか神西家の命脈を保つことには成功したようだ。だが、本貫である神西城から伯耆国末石城に移されてしまい、独立的な国人としての神西氏はここで終わりを告げ、本格的に毛利家臣化する。これは、戦国大名の専制化に伴って全国各地で起こった事だが、特に出雲の国人は尼子氏時代から独立的で、大内氏と尼子氏の間で反復する者も多く、これら国人と同じ境遇にあった元就は大内氏や尼子氏の統制失敗を見て警戒し、先祖伝来の土地から引き離す方針だったのか、尼子氏滅亡の際に帰順した国人を次々と転封させていった。土地から引き離してしまえば、土地に根ざした動員力等を使えず、叛乱しても立ち枯れさせることが容易となるからである。その後、元通は尼子勝久を担いだ山中鹿之助幸盛による再興戦に身を投じ、一時は山陰で一定の勢力を確保したが、毛利家の逆襲に屈して撤退し、元通は城に復帰できないばかりか、後に主従共々天正6年(1578)に播州上月城での籠城戦に敗れて切腹させられ、再興の夢も潰えてしまった。
 毛利家に奪われた後の神西城は、その西出雲の属城として機能し、月山富田城攻略の後方拠点として使用された可能性も指摘されている。だが、実際のところ、詳細な事跡は不明で、いつ頃廃城になったかも判っていない。島根県教育委員会の調査では、削平の不十分な郭が多いということが判っており、拠点化の為の造成途上で情勢の変化により放置された可能性も考えられるが、どうだろうか。
 城の構造は、三日月形の本丸から北西側に平坦な地形が階段状に3つ続き、十楽寺登山道と光成登山道の合流点がひときわ大きくなっているが、ここは3つあったという主郭のひとつと思われる。また、南側の那賣佐神社の辺りも、恐らく郭跡を利用したものだろう。しかし、残念なことに縄張図等の案内板が無く、中腹も竹薮に覆われている為、詳しい構造は掴めなかった。点々と削平地は確認できるので、丘陵全体に郭が散在するなかなかの規模の城のようなのだが、整備が不十分で非常に残念である。尼子十旗のひとつでもあり、それ相応の規模があるという痕跡があるだけにもったいない。
本丸直下の小郭 城へは、出雲神西駅から西へ線路沿いの旧国道をしばらく行き、踏切で南へと線路を越えると、集落の中に登山口のある十楽寺への案内が小さく出ている。ただ、集落付近の道は非常に狭いので、車なら広域農道を平成スポーツ公園方向へ走り、那賣佐神社から登るほうが良いかもしれない。城には、この十楽寺と那賣佐神社からの他に、北東方向の光成からの計3ヶ所の登山口があるが、比高が100m程度なので、どこからでもそう変わらないだろう。本丸からは神西湖や出雲平野が一望でき、標高の割に登った爽快感がある城だった。