四ッ山城 所在地 島根県美都町
JR益田駅西9km東仙道小後背
区分 山城
最終訪問日 2001/10/27
四ツ山城本丸跡 四ッ山城の名前の由来は、他の地方に見られる同名の城と同じように、標高220mほどの同形同高の4つの山に、それぞれ郭を築いて1つの城としている事からである。
 築城は、鎌倉中期に益田氏の手によるという。築城からしばらく経った鎌倉末期には、益田家当の主兼弘の名が城主として残っているが、その少し前ごろから独立色を強めてきた三隅氏を始めとする支族との勢力争いや、鎌倉幕府の支配力低下などが、当主自らこの城に居した背景としてあったかと思われる。そして、南北朝時代から室町、戦国時代にかけては、益田氏と三隅氏の争いが激化し、互いの領境の城であった四ッ山城は双方の争奪の城となって城主が度々交代した。
 石見に影響力を及ぼしていた大内義隆が天文20年(1551)の大寧寺の変で自刃した後、同24年(1555)の厳島合戦を経て毛利元就が石見に勢力を伸ばすと、紆余曲折を経て益田三隅両氏は共に毛利家に服すようになる。しかし、元亀元年(1570)になると、三隅隆繁が弟国定や同族の周布晴氏と共に吉川元春に対して叛乱を起こす。これは、山中鹿之助幸盛が主導する尼子再興軍からの誘いがあったとも、益田氏に対抗する思惑があったともいう。
 この叛乱当時、四ッ山城は三隅氏が支配していたのだが、当然のように毛利軍4千5百に包囲され、城将須懸忠高が将兵5百と共に奮戦するも敵わず、壮絶な討死を遂げている。また、三隅氏も同様に、吉川元春率いる毛利軍に蹴散らされ、隆繁の自刃で三隅氏は滅亡した。その後、四ッ山城がいつごろ廃城になったかは不明だが、毛利氏が防長二州に押し込められた慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後か、その少し前に廃されたようだ。
 城は東の山である一ノ岳を主郭として、西に向かって川沿いに延びる二ノ岳から四ノ岳までを城砦化し、それぞれが峻険な山容を持っていた。眼下に川筋を廻らし、整備されている一ノ岳への登山道の途中には竪堀や堀切の跡も認められる。そして、主郭である一ノ岳には大きな平坦地があって、三隅三城の1つに数えられるだけの規模を持ち、戦略上重要な城であったことを証明しているようだった。ただ、普通に行けるのは一ノ岳までで、二ノ岳から四ノ岳への登山道はほとんど整備されていないのが残念である。