津和野城 所在地 島根県津和野市
津和野町役場西南1.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/27
 津和野城は最初一本松城、後に三本松城と呼ばれ、元寇への備えとして弘安年間(1278-88)に入部した吉見頼行によって永仁3年(1295)に築城されたが、城として完成した形となったのは子の頼直の代である正中元年(1324)のことで、以降14代320年に渡って居城とした。
 吉見氏は清和源氏源頼朝の弟範頼の流れで、武蔵国比企郡吉見荘が本貫であったが、子孫は三河や因幡、能登へと広がった。石見の吉見氏は能登から分かれたもので、南北朝時代には大内氏を盟主とするようになり、戦国時代には有力な大内配下の武将となっている。
 天文20年(1551)大内義隆が叛乱した陶晴賢に討たれた時、古くから大内家中で陶氏と対立していたこともあってか、当主正頼はいち早く追討の旗を鮮明にし、3年後に晴賢に攻撃された際には104日間に渡る龍城戦を守り抜いた。この時の毛利元就への援軍要請が、毛利家を晴賢との対決へと駆り立たせる端緒となるのだが、陶氏を厳島で討ち、旧大内領を併呑して勢力の大きくなった毛利氏からは山口攻略の戦功第一と賞され、厚遇された。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、西軍に属した為に大幅に減封された毛利氏に従って吉見氏は長門に移り、代わって宇喜多直家の甥である坂崎出羽守直盛が入部した。直盛は最初従兄弟である秀家の後見であったが、宇喜多家中が武断派と文治派に割れた内紛で他家に預かりとなり、関ヶ原の合戦直前の会津遠征から家康に従っていた。関ヶ原の合戦では旧主と東西に分かれ、秀家は戦後八丈島に遠島になり、直盛は功で津和野を与えられた。しかし、直盛は、慶長20年(1615)の大坂の陣の後、いわゆる千姫事件で断絶してしまい、治世は16年に過ぎなかった。
 巷間では、直盛が火傷を負いながら千姫を探して助け出したものの、その火傷が千姫に嫌われて本多忠刻に嫁そうとした為、強奪しようとしたというのがもっぱらだが、実際は大坂城落城の際、秀頼と淀君の助命の為に千姫は護衛と外に出たが、護衛が直盛と知り合いで、家康の本陣まで無事に着けるよう頼んだというのが真相らしい。また、戦後の縁談についての話も、公家衆に顔の利く直盛が話をまとめたが、千姫はそれを嫌がって忠刻と再婚しようとし、面目の立たない直盛がごねて幕府を慮った家臣に殺されたのではないかと新井白石は述べている。
 直盛の治世は短かったが、城の改修を行って出丸を新たに築き、城下町の整備に力を入れた。現在残っている小京都と呼ばれる町並みや山上の城からは、直情型と伝えられる直盛のイメージとは違った優美な雰囲気が感じられるが、このあたりも、内政をきちんとしていた直盛の本当の姿を伝えるものだろう。
 この直盛の後を引き継いだのは因幡より入部した亀井氏で、藩は明治維新までそのまま続いた。幕末の第2次長州征伐の際には、長州軍に抗戦せず通過させ、城は浜田城のように戦火には遭わなかったが、明治7年に惜しまれながら解体された。
 城の標高は367mあり、出丸を含めた規模は大きく、東西南を天険と津和野川の流れによって守っているが、近世の津和野城は中世のものより小さかったとされ、吉見氏が耐え抜いた籠城戦の頃はいかにも中世的な山城で、小さな郭が多く連なっていたのではないだろうか。今でも峻険な山上にある石垣はすばらしく、鯉が泳ぐ古い町並みを一望できて天守台も備えられているが、天守閣は江戸中期に焼失して再建されなかった。また観光の為にリフトもあり、徒歩で登るのは厳しいという人にはありがたいが、一面では城の厳固さを物語っているともいえるだろう。