富田城 所在地 島根県広瀬町
広瀬町役場東1.5km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/26
本丸にある山中鹿之助を称える石碑 平治年間(1159-60)頃に平景清が築城したとも、文治元年(1185)に出雲守護となった佐々木義清が入部して築いたともいう。以後は代々出雲守護の居城で、佐々木氏や山名氏の本城であったり目代が置かれたりしたが、応永2年(1395)に京極高詮の守護代として一族の尼子持久が入城し、以降は尼子氏の居城となった。だが、出雲は国人勢力が強く、持久の子清貞(清定)の時には、応仁2年(1468)に城が松田氏や三沢氏らの一揆勢力の攻撃に晒されたほか、文明8年(1476)の能義郡土一揆の際にも攻撃を受けている。
 清貞の子経久は、文明16年(1484)に京極氏からの独立を図って失敗し、幕府や守護の命を受けた国人衆の兵に城を追われたが、その2年後に地元鉢屋党の協力で城に侵入し、計略を以って奪回したという。そして、経久はこの城を拠点にして、山陰を中心に着々と勢力を広げ、遠く美作や備中、播磨にまで影響力が及ぶ尼子氏の最盛期を築き、城もそれに相応しいように改修拡張された。
 しかし、経久の孫である晴久の代には、毛利氏の吉田郡山城攻略失敗で国人の離反を招き、天文11年(1542)から翌年にかけて、中国の覇権を争っていた山口の大内氏にこの城を囲まれている。この時は、大内軍の厭戦気分に助けられつつ、城の堅牢さと尼子十旗と呼ばれる支城網を機能させて撃退し、勢力を盛り返したが、その後は新宮党の族滅など内部分裂もあって再び勢力を弱めてしまう。この事件は、俗説では毛利元就の謀略にかかったことになっているが、晴久が中央集権化を図る上で様々な権益を持っていた新宮党と衝突した結果であるともいわれる。いずにせよ、尼子家の集権化は思ったように進まず、晴政没後は国人衆の離反も続いて弱体化に拍車が掛かり、子義久の時には、大内氏に対して謀叛した陶晴賢を厳島の合戦で破って台頭してきた元就に攻撃され、籠城にまで追い詰められてしまう。富田城自体はさすがに堅固であったが、力攻めを諦めた元就は方針を兵糧攻めに変更し、包囲中に大病を患いながらも永禄9年(1566)にようやく開城させ、尼子氏を捕えた。この時、最後まで残った籠城兵は2千に満たなかったといわれ、これは非常に厳しい籠城戦だったという事の証左になるだろう。
広大な中腹の山中御殿 毛利氏の支配下となった富田城には天野隆重が城代として入り、永禄12年(1569)には再興を目指す尼子勝久と山中鹿之助幸盛主従に攻撃されたが、無事撃退に成功している。その後、元就の子である元秋、元康の城主時代を経て吉川広家が12万石を領したが、毛利氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して防長二州に押し込められ、代わって堀尾吉晴が24万石で入部した。吉晴は、峻険な山城である富田城から、政庁機能や城下町が形勢しやすい近世平山城への主城移転を考え、同16年(1611)に宍道湖畔に松江城を築いて移り、ここに富田城は廃城となったのである。
 城は、月山の西北麓を廻る飯梨川を堀に使い、山上の軍事機能を重視した部分と中腹の居館政庁機能を重視した部分の、大きく2つに分かれた構造をしており、中世から近世へと変遷する構造の変化がそのまま表れていると言えるだろう。山上の部分は、標高189mの月山山頂を中心に本丸、二ノ丸、三ノ丸と、北西に向かって尾根筋に築かれ、全て石垣造りで規模も大きく、尼子氏時代の姿を色濃く感じさせる。居館や政庁にあたる部分は、山頂から急峻な七曲を下った月山中腹にあり、山中御殿を中心に花ノ壇、奥書院、太鼓壇、千畳平、大東平、お茶庫台等、かなり広大な敷地を擁していた。この部分は政庁的な機能だけではなく、3つある登城口がすべてこの中腹の部分に繋がる為、平時の機能を重視しているとは言え、軍事的にも非常に大事な部分であり、毛利氏に攻撃された尼子氏もここで死力を尽くして防戦している。
三ノ丸の石垣 現在は、これらの遺構が順次修復復元され、当時を偲ばせる陣屋や、礎石、巨大な石垣などがあり、ほとんど当時の物という中腹部分の石垣は壮観だ。石垣の積み方を見ると、山頂のものはより古く石も小さめだが、中腹の政庁部分の石垣は大きく、戦国末期の毛利氏時代以降のものかと思われる。山の谷側のほぼ全体が城郭化されているが、江戸時代初期に廃城となった事もあって、江戸時代から現在まであまり手が入る事もなく、中世山城の良い資料として遺構が残っており、その規模から五大山城のひとつに数えられているのも納得がいく。