三沢城 所在地 島根県奥出雲町
JR出雲三成駅西4km
区分 山城
最終訪問日 2011/10/23
本丸の城址碑 尼子氏の本拠月山富田城の支城、尼子十旗のひとつで、有力国人三沢氏の居城。
 三沢郷は、出雲国風土記に三津郷として登場し、大国主命とその御子阿遅須枳高日子(アヂスキタカヒコネ)の話として、御子の初めて発した言葉が「御津(ミツ)」であり、御子がそこで沐浴して立派な神になったとある。その沐浴場所が、城の水の手である三沢池で、神亀3年(728)に三津から三沢へと改名したという。つまり、はるか古代より人に知られた場所であり、当然のことながら集落もあったはずである。
 ここを本拠地とした三沢氏は、木曾系と飯島系の2説があるが、いずれにしても清和源氏の主流である源経基の流れであるようだ。木曾系説では、木曾義仲の次男義基の子為仲を祖としているが、長府藩三沢氏の系図では、源経基の末子満快の流れで信濃国伊那郡飯島を領した飯島氏の流れとし、飯島為光が承久3年(1221)の承久の乱の功で三沢郷を得たとされる。その後、為光の孫広忠が入部したとも、広忠の孫為長(為仲)が入部したともいわれるが、いずれにしても農地の開拓とたたら製鉄で力を伸ばしていったのは間違いない。
 為長は、入部当初は城の北側の鴨倉を根拠地にしており、嘉元3年(1305)かその前年に築城された三沢城は、鴨倉山に築かれたことから鴨倉城とも呼ばれた。そして、この城から見下ろせる斐伊川の川沿いや阿井川などの支流に沿って勢力を拡げて行き、やがて斐伊川が平野部へと出る直前の大原香折新宮の地頭職をも得ている。
 南北朝時代に入ると、出雲は京極氏や山名氏が守護職を務め、三沢氏もその指揮下にあったようだ。山名氏が将軍義満の挑発に乗って起こした明徳2年(1391)の明徳の乱では、出雲守護を剥奪された山名満幸に従って戦った当主為忠の討死が確認できる。だが、叛乱の後も勢力を維持したようで、やがて東の横田庄にも進出し、後に御料所を地頭請所とする院宣を受けるなど、出雲国人一揆を主導する勢力にまで成長した。
三沢城鳥瞰図 こうなると、守護勢力に対抗するのは乱世の理なのだろう。応仁元年(1467)からの応仁の乱での京極氏と山名氏による対立もあり、翌年の松田備前守の叛乱に加担したほか、当主為清の従兄弟で出雲守護代尼子氏の代官を務めた為信が文明2年(1470)に国人一揆を起こしている。一方で、為清は同7年(1475)に京極氏に従って近江国弓削で討死しており、惣領と庶家で対応が分かれたようだ。その後は、為清の子為忠が同16年(1484)の尼子経久追放に加担し、経久復帰後の長享2年(1488)から翌々年にかけて子為国と共に経久の討伐に敗れ、永正11年(1514)には為国が経久の藤ヶ瀬城攻撃を籠城で凌ぐなど、対立を繰り返した。ちなみに、鬼神神社由緒では、同16年(1519)に藤ヶ瀬城は落城したとある。
 享禄3年(1530)には、経久の子興久が塩冶氏に入嗣して給地の不満から反尼子的な勢力を糾合し始め、父子が対立するが、為国は当然のように興久に与した。この為、翌年の経久による急襲を受けて藤ヶ瀬城が落ち、経久の介入で、為国の月山富田城への幽閉と、親尼子派の弟為幸の家督相続となるのだが、この背景には、独立的な為国と親尼子の為幸の対立があったともいう。また、為忠が藤ヶ瀬城に移した本拠は、家督相続に伴って為幸が以前から城主を務めていた三沢城へと戻された。
 為幸は、鬼三沢とも呼ばれた勇将で、以後も尼子氏によく仕えたが、経久の孫晴政による天文9年(1540)の毛利攻めの際、毛利元就に迫ったものの元就の馬廻の矢で討死し、家督は子為清が継いだ。この時、為清は僅か4歳であり、一族や有力家臣らの判断で同11年(1542)の大内義隆の尼子攻めの際に大内側に転じ、月山富田城攻略が難航すると尼子氏に再び寝返るという国人らしい動きを演じている。ただ、この離反によって重要な横田庄の領地を尼子氏に奪われてしまい、勢力は衰えた。
大手門の石垣  以降、為清は晴政に従い、尼子軍中堅として活躍したが、元就が本格的な出雲侵攻を始めるとこれに降り、白鹿城攻めや月山富田城攻めなどに参加している。その後も山中鹿介率いる尼子再興軍に投ずることもせず、毛利家部将として終始し、対尼子再興軍戦や上月城攻め、鳥取城救援などに参陣した。為清の子為虎は、毛利氏が秀吉に臣従した後の独立的国人の再編に巻き込まれ、天正17年(1589)に安芸で拘束されて三沢城を没収されたが、その後も毛利重臣として活躍し、後には毛利支藩の長府藩家老となっている。一方の三沢城は、為虎退去後に廃城になったか毛利家の代官が入城したかは不明だが、いずれにしても慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に使用されていないのは間違いない。
 城は、標高418mの要害山山頂に本丸と鳥居丸を設け、本丸城濠という堀切で区画して主郭部としている。この2つは標高が同じで、どちらを城の中心とするかは諸説があるようだ。本丸の南に岩棚、鳥居丸の北に尾根筋の段郭である北郭群を擁し、東側の大手筋には、本丸直下に第二郭群という尾根筋特有の三角形の郭を複数設け、その下には萩森口郭群や曽根郭群が続いて神ノ木成(ナル)の郭まで続く。本丸城濠の下には、迷路石垣や七曲と呼ぶ通路を挟んで大きな二ノ丸があり、大手口には石垣も構えられていた。この大手口から二ノ丸の反対側にやや離れて十兵衛成(担)という郭があり、三沢池を守る役割を果たしているが、この周辺には馬出堀を始め複数の堀切が確認でき、水の手を守る重要性が透けて見える。また、登山道入口のところも郭跡で、名前はヒロヤ成という。訪れた時は何かの建物が建設中だったが、車を止める場所がすでに城域というのは、登る身としては非常にありがたい。その他、案内板によれば堂山出丸や中山出丸というのも麓の丘陵部にあり、要害山の東側全体を城郭化した大規模な城であった。
 ちなみに、現地では成や担の表記が混在しているが、これはナルと読む。東城の五品嶽城でも平と書いてナルと呼んでいたが、恐らく字は当て字で、中国山地一帯では削平地のことをナルと呼んだのだろう。あくまで推測だが、このナルは丸が転訛したしたものかもしれない。この辺りは方言に詳しい言語学者に聞いてみたいものである。