三刀屋城 所在地 島根県三刀屋町
三刀屋町役場北800m
区分 山城
最終訪問日 2001/10/26
三刀屋城の現地案内板 この辺り一帯を領した三刀屋氏はもともと諏訪部氏といい、清和源氏流の信濃源氏の出で、承久3年(1221)助長とも扶長とも書かれる扶永が三刀屋郷の地頭となって下向し、後に三刀屋を称した。
 築城はこの承久3年(1221)ともいわれるが、最初蛇山を本拠にしていたともされ、その当時から支城として存在したのか、それとも本拠を移した時に新たに築城したのかは、三刀屋氏自体の事績が明らかでないので分からない。
 ともかく、三刀屋氏は南北朝時代には北朝方として勢力を拡大し、戦国時代初頭には出雲の有力な国人となっていた。尼子氏が台頭すると、当主であった忠扶はこれに抵抗したが、有力国人の三沢氏が尼子氏に従うとこれに倣って臣従し、やがて尼子十旗の三番として月山富田城の支城網の一角となった。
 戦国時代中期の当主久扶は、尼子晴久から久の一字をもらうような重臣であったが、晴久が毛利氏の吉田郡山城攻めに失敗すると大内氏に寝返り、大内氏による尼子攻めが芳しくないと見るや再び尼子氏に帰参するという、小豪族の典型のような行動をしている。しかも尼子氏へ帰参する時は、富田城へ攻めかかる振りをしてそのまま入城するという、大内氏の城攻めの失敗を象徴するような話も残っており、後に勢力を拡大した毛利元就の配下となった後でも、その服従し切れない性向は変わらず、動員令を無視することがあったらしい。だが、時代はそのような半独立的な豪族の存在を許さず、天正16年(1588)に家康に接見したことを毛利家当主輝元に疑われて出雲を追放され、子の孝和は細川幽斎の田辺城籠城に身を投じたことが史料に見られるものの、以降は歴史の表舞台から姿を消している。
 城は標高130mほどの急峻な山容を持つ尾崎山に築かれ、頂上に物見台を含む本丸と二ノ丸を配し、中腹には馬場と伝えられる大きな平坦地が設けられており、現在では駐車場になっている。この周辺にあるいくつかの小さな駐車場も段のひとつだったと考えられ、本丸から下を覗くと、木が取り払われているので無数の腰郭が確認でき、駐車場を含めた山城の構造がとても分かりやすい。
 伝説では、毛利氏に城を攻撃された時、城から落とした巨石が城門を破壊して自落したと伝えられるが、毛利氏に属した後はその兵站拠点として機能し、富田城攻めでも重要な役割を担ったはずである。江戸時代に富田城に入部した堀尾吉晴もこの城を維持したようで、僅かに残る石垣や横矢構えなどの近世的な構造は、三刀屋氏時代の末期か、堀尾氏時代の支城として改修されたものと思われるが、廃城時期はよく分かっていない。
 現在は本丸跡に稲荷社があり、細く急峻な登山道が続くが、遊歩道にならず車道のまま頂上まで到達しているので、登るのは拍子抜けするぐらい楽だった。また、麓の道沿いからは三刀屋城跡という看板が見えるので、探すのも楽な城だった。