三隅城 所在地 島根県三隅町
三隅町役場東1.8km
区分 山城
最終訪問日 2001/10/27
 益田氏の支族で、宗家と争った三隅氏の居城。三隅三城のひとつ。
 益田氏は、関白藤原忠平の子孫国兼を祖とし、その曾孫兼高が源平の争いの際に源氏に味方して石見に所領を与えられ、益田を本拠として御神本から益田に名乗りを変えたとされ、三隅氏はその兼高の次男兼信が三隅郷などの地頭職を継いで名乗ったのが最初という。伝承では、三隅城の築城は寛喜元年(1229)となっていることから、その前後の話だろう。
 南北朝時代には、惣領益田氏は武家方についたのに対し、三隅氏や周布氏などの庶家は宮方について相争い、三隅城には石見守護上野頼兼や足利家執事高師泰などが攻め寄せたが、当主兼連はこれを撃退してめざましい活躍を見せた。しかし、正平8年(1353)足利直冬に従って出陣した京を巡っての戦いで討死し、孫にあたる直連は、武家方へ転じた大内弘世と結んだ益田氏に、正平22年(1367)降伏した。
 戦国時代になると、両家とも大内氏を盟主としてその影響下にあったが、益田氏寄りであった大内政弘の死を契機として、興信は明応8年(1499)益田兼堯に対して争いを起こし、大内義興の数度に渡る仲介にもかかわらず和解しなかった。この興信の死後、当主となったのが興兼、兼隆という比較的穏健な武将であった為、両家の間の目立った争いは少なくなったが、天文20年(1551)の陶晴賢の叛乱で大内義隆が滅ぶと、陶氏と姻戚関係にあった益田氏は陶方について三隅氏の高城を攻撃し、ついに当主兼隆は降伏した。
 その後、晴賢を厳島で破った毛利元就が石見に勢力を伸ばすと、益田氏と共に元就に服属したものの、兼隆の跡を隆繁が継ぐと、元亀元年(1570)には吉川元春に対して叛乱を起こし、共謀した周布晴氏と共に嫡流は滅ぼされた。だが、興兼の子寿久の流れは健在で、江戸時代に長州藩家臣として生き残っている。
 城は標高362mの高城山にあり、三隅川を中心とした現在の市街の東にある。当時は高城とも三隅高城とも呼ばれ、兼連が整備したといわれる周辺の6つの支城と連携して防御力を高めていた。廃城時期は不明で、あくまで想像に過ぎないのだが、毛利氏は滅ぼした勢力の城を廃城にする傾向が少なかったので、そのまま支配拠点として維持し、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に廃城となったのかもしれない。
 現在の高城山には車道が頂上近くまで整備され、標高の高さの割には登りやすい城となっている。頂上には主郭であったと思われる四段の削平地と、僅かだが土塁や堀切が残っており、そこからは三隅市街と日本海の素晴らしい眺望が広がっていた。

三隅城から日本海