石見銀山
所在地  島根県大田市
太田市役所西南11km仙山地下
最終訪問日  2001/10/27
見学できる龍源寺間歩の入口 但馬の生野銀山と共に、西日本で最も大規模に銀を産出した銀山。石見銀山は戦国から江戸時代にかけての名称で、大森銀山ともいう。
 最初の発見は延慶2年(1309)という伝承があるが、恐らくは細々と露天掘りが行われていたに過ぎなかったのだろう。戦国時代の大永6年(1526)に神屋寿禎という商人が発見し、享禄4年(1531)には川本の豪族小笠原氏が銀山を領有したとあるので、この辺りから本格的な採掘が始まったと思われる。
 やがて、山陰に触手を伸ばす大内氏や山陰の大勢力尼子氏、大内氏に取って代わった毛利氏など、群雄の間で争奪戦が繰り広げられ、豊臣政権期には毛利氏と秀吉の共同管理となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、毛利氏が石見を召し上げられると徳川氏の直轄となったが、それまでに9回の支配者交代があったらしい。
 安土桃山時代から産出量が増え、江戸時代初期の大久保長安が奉行に就任した頃に最も多かったが、江戸時代中期以降は産出量が落ちた。その後、明治20年から民間の経営で西洋式の採掘に切り替えて増産に成功したが、大正12年に閉坑となり、昭和44年に国指定史跡となった。
 坑道を間歩というが、現在公開されている龍源寺間歩は2番目に規模の大きいもので、這ってしか入れないような小規模の間歩は無数にあり、当時の劣悪な労働環境が窺える。銀山川沿いを歩いていると、そんな小さな間歩があちこちにあって、安全の為に全て金網がかけられている。そのほかにも、かつて抗夫等が住んでいたと思われる住宅の跡の朽ちた石垣などが、銀山資料館のある入口からずっと上流の方まで続いていて、かつての栄えた様子を想像させる。