浜田城 所在地 島根県浜田市
JR浜田駅西1.2km
区分 平山城
最終訪問日 2001/10/27
本丸跡から一ノ門と桝形 別名亀山城ともいい、西は浜田川、北は松原湾に区切られた、標高68mの独立丘陵上に築かれている。
 元和5年(1619)、古田重治が伊勢松坂からこの地に移封され、翌年に築城が開始された。元和9年(1623)には城下町も含めて整備されたようだが、古田家はお家騒動で改易となり、以後松井松平、本多家、再び松井松平、越智松平と、親藩や譜代が目まぐるしく替わりながら続いた。これは、幕府の仮想敵国であった長州藩に対する抑えとして重要視されていた為のようだが、肝心の慶応2年(1866)の第二次長州征伐の時には、村田蔵六と名乗っていた大村益次郎率いる長州軍と戦わず藩全体で退去し、城は城下町と共に炎上して灰燼に帰した。そして、その後は藩の政庁が移された為、城が再建されることもなかった。
 城の構造は、亀田山の頂上に本丸と、その西隅に三重の天守閣があり、本丸と一段下がった二ノ丸の間には、2つの門と大きな桝形の石垣が今でも残っている。二ノ丸には番所、硝煙櫓等が置かれ、中ノ門から外の三ノ丸には、御殿、米倉、潮見櫓があった。川と海がない東側には内堀と外堀が配され、当時は海城に近い形態だったようだ。
 現在は、二ノ丸跡に護国神社があり、石見人や第二次長州征伐の浜田藩の苦悩に対する司馬遼太郎の随想碑もある。ただ、この護国神社付近までは、あまり城としての雰囲気や遺構を残しておらず、城門跡にもそれを示す碑が目立つ程度で、下から登ってきてもそれほど期待できる感じではなかった。しかし、本丸へと繋がる城門から上は、急に石垣造りの城という存在感が漂っており、桝形を通って本丸へと出た時には、完全に城跡という雰囲気になっていた。これほど登っていくと急に表情を変える城も珍しい。