膳所城 所在地 滋賀県大津市
京阪電鉄膳所本町駅東550m
区分 平城・水城
最終訪問日 2001/8/23
膳所城址碑 琵琶湖に張り出した平城の水城で、日本三大湖城のひとつ。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前に、その前哨戦としての籠城戦があった大津城を廃して、合戦翌年に築城された。その理由は、大津城が籠城戦の際に近くの長等山から城内を見渡せたので、それを嫌った為といわれる。
 膳所城の築城は、関ヶ原の合戦後に大津城主となった戸田一西に命じられたが、縄張は藤堂高虎が担当し、普請は諸大名が分担して行うなど、江戸時代初期の主要な城の築城に適用された天下普請の最初の例となった。そして、完成後は戸田一西がそのまま城主となり、子氏鉄が元和3年(1617)に尼崎へ転封して以降も、東海道と京を結ぶ要衝であることから譜代の守る城として、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、本多氏が再封してそのまま維新を迎えている。
 城の構造は、琵琶湖に突出して本丸を置き、その南北にある二ノ丸や北ノ丸に続いて陸地側に三ノ丸を配した梯郭式の縄張であったようだ。また、四層四階の天守が湖面に映える美しい城であったという。しかし、現地に案内板などがなく、縄張図を元に散策することができなかったので、正確にどのような構造をしていたかは、現地から実感できなかった。
 現在は城域の大半が公官庁や住宅団地などの敷地になっているが、県道102号線よりも湖岸側の城跡の一部が公園として整備されており、城門や隅櫓の一部も寺社などに移築されて他の場所に現存しているという。しかし、公園には城の建造物が無く、公園の琵琶湖側に僅かに確認できる当時の石垣が、水城の雰囲気を漂わせているに過ぎない。また、道路側には城があったのを主張するように堀があるが、石垣が明らかに近代の造りで、遺構ではなく復元ではないかと思われる。
 調べてみると、この公園化されている部分が本丸跡であるらしく、隣接する南の浄水場が二ノ丸跡という。この琵琶湖に突出した城の構造が、湖水の侵食による頻繁な改修の必要をもたらし、藩の財政を非常に苦しめたようで、明治3年に出された廃城に関する太政官布告の翌日から早速取り壊しが始まったのも、それが一因であったともいわれている。また、その時に天守も破却されたのだが、今残っていれば湖面に映えて非常に優美な城の景観があったと思われるだけに、非常に惜しまれる城だ。