横山城 所在地 滋賀県長浜市米原市市境
北陸道長浜I.C.東3.8km
区分 山城
最終訪問日 2012/5/12
横山城縄張図 築城時期は定かではないが、室町時代に京極氏の支城として構築されたという。
 永正14年(1517)に浅井亮政と京極高清が対立した際、亮政が城を落としたと史料にあり、この頃には既に存在したようだ。その後、亮政台頭の過程で、京極氏や南近江の守護六角氏を巻き込んだ戦いがあり、横山城も浅井家や六角家によって境目の軍事拠点として利用され、幾度も改修の手が入ったと考えられる。
 浅井家は、亮政の子久政の時に六角氏に臣従していたが、久政の子長政が永禄3年(1560)に野良田の合戦で六角義賢を破って独立を果たす。そして、これを機に支城網の再構築がされたのか、翌年に浅井家臣遠藤直経によって城は大掛かりな改修を施された。横山城の城主としては、改修の前後は判らないものの、浅井一族である浅井井演の名が見えるが、井演の子の井伴が天文年間(1532-55)にすでに活躍していることを考えると、井演が城主を務めたのは改修の前と考えるのが妥当だろう。また、改修後の城主としては、直経の妹婿である田辺式部丞や三田村国定の名が見え、元亀元年(1570)の信長による横山城攻めの際には、前述の国定と共に野村直隆、大野木秀俊、中島直頼が城将となっている。
 この時の合戦は、浅井氏の本拠小谷城攻略の手始めとして前線基地であるこの横山城を信長が囲んだという戦いで、朝倉家の援軍を得た長政が城を救援すべく出陣し、姉川の合戦へと展開していく。そして、この姉川での戦いに勝利した信長は、浅井・朝倉連合軍を追撃せずに横山城を囲んだが、敗戦を知っていた浅井方の城兵にはすでに戦意が無く、城から退散していた為にあっさりと陥落した。
北城主郭部 地勢的に見ると、横山城は浅井家の本拠小谷城と南の軍事拠点である佐和山城の中間に位置し、佐和山城主で猛将の磯野員昌と小谷城の連絡を断つには最適な城で、信長もそのような攻略意図を持っていたと思われる。また、眼下の北国脇往還から岐阜への連絡が容易であった為、信長は頭角を現しつつあった秀吉を城番に据えて常に監視させた。そして、秀吉は幾度か攻撃を受けながらも城を守り切り、その効果は、分断によって後詰を失った上に長政から猜疑の目で見られるようになっていた員昌が姉川の合戦の8ヶ月後に降伏するという形で表れている。また、小谷城攻略の際にも、織田軍の前線基地の役目を担うなど、対浅井氏ではかなり重要な城となった。しかし、浅井氏が天正元年(1573)に滅んでからは重要性が失われ、同3年(1575)の長浜城完成によって歴史の表舞台から姿を消し、廃城か空城になったようだ。だが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦の際には、長浜城と共に後方拠点として改修が施されており、この一時期だけは城として復活している。
 城は、典型的な山城であるが、文献や史料から六角氏、浅井氏、小谷城対陣時、賤ヶ岳の合戦時の大きく4回に渡って改修されたことから、最終的には40以上の郭を持つ大掛かりな城となった。立地としては、横山丘陵の尾根筋に北を短い足としたY字型に構築され、北の部分は比較的なだらかであるが、南側はかなり峻険な山容で、頂上からは、北は姉川からその先の小谷城まで望むことができる。構造を見てみると、最高部の北城の本丸を中心に搦手となる北峰に細長い郭を置き、西南方向の峰に堀切と郭を幾つか連続で設置しており、こちらは堀切も郭も規模が大きい。北城から郭だったであろう平坦な鞍部を介した先の東南峰には南城があるが、南城には腰郭を含め大きく5段の郭があり、こちらは土塁や井戸、竪堀、峰筋の段郭など、遺構が多彩である。
南城の主郭部と奥に見える井戸 この北城と南城では築城年代が違うらしく、最初は北側に城が構築され、次いで南側が築かれたらしい。また、南城も北方向に土塁などの防御設備が整っていることから、北に対する備え、具体的には北城を奪われても南城で耐え得るように一城別郭として改修されたようである。南城の拡張時期ははっきりしていないが、南城に井戸が掘られていることを考えると、戦時の砦として使われた賤ヶ岳の合戦の時よりも、小谷城の付城として長期滞在の必要があった対浅井戦の時の拡張と考えるのが妥当だろうか。実際に、南城の土塁には2期の工事の跡があり、2期目が賤ヶ岳の合戦で、1期目は対浅井戦の時と考えるのが合理的だろう。
 横山城へは2度登ったが、日吉神社からの道が比較的なだらかだったのに対し、石田山公園駐車場からの道はかなり険しく、雨が降った直後などは所々ぬかるみでちょっと手に負えなくなるだろうという感じだった。遺構も、なだらかな地形に対する防御という理由もあって日吉神社からの道の方が豊富で、二重堀切を始めとした幾つかの堀切と段郭が連続しており、散策が楽しめる。一方、石田山公園駐車場方向からの道も、南城周辺に前述のように多彩な遺構が集中しているほか、尾根道は平坦に近い上に視界が開けており、湖東の眺めという点ではこちらが抜群だった。もう一方の北峰の搦手からは、村居田へ下りる道があるが、こちらは散策した範囲では矢竹が刈られず藪となっており、残念ながら視界はまったく開けていない。