山本山城 所在地 滋賀県長浜市
JR河毛駅西4km朝日小すぐ
区分 山城
最終訪問日 2011/10/11
山本山にある城址碑 小谷城の西の支城にあたる小規模な城。
 新羅三郎義光の裔である山本義定かその子義経が、平安時代末期に築城したという。山本氏は近江に土着した近江源氏であるが、宇多源氏の佐々木氏とは違い清和源氏である。
 山本山城が歴史に登場するのは、以仁王が全国に平家打倒の令旨を送った治承4年(1180)で、これによって挙兵した義経ら近江源氏は三井寺に討ち入るなどしたが、やがて平家軍に押され、義経の居城である山本山城に籠った。しかし、平知盛と資盛率いる平家軍に攻撃され、12月に落城、義経は関東へと落ちる。そして、義経は頼朝に伺候した後、源義仲軍へと投じて入京を果たすが、義仲が頼朝の弟義経に敗れた為、没落した。
 中世の城の動向は不明だが、戦国時代には城からすぐ西の尾上湊付近を本拠地とした有力国人浅見氏の支配下にあったようで、永正14年(1517)に浅井亮政が江北の守護京極高清を幽閉した際には、磯野氏と共に浅見貞則がこの山本山城に籠城したが、後に落城している。その後、この貞則は高清や京極家の老臣上坂信光と対立し、亮政ら国人達の旗頭となって高清の長男高延擁立に成功するが、今度は貞則が専制化した為、亮政を中心とする国人連合に追われ、亮政台頭の因を作った。
 浅井氏が台頭した後は阿閉貞征が城主となり、浅井氏の本拠小谷城の重要な支城として、東の北国街道や西の尾上湊の水運を監視する機能を果たした為、城は阿閉城と呼ばれることもあるという。貞征は、後の元亀元年(1570)の姉川の合戦では第3陣を任されており、これを見ても浅井家中においてかなりの重臣であったことが分かる。また、藤堂高虎や渡辺官兵衛了といった著名な武将が一時は仕えた人物でもあり、貞征の残した事跡は少ないながらも、割に知られている武将だろう。
 この頃の浅井氏は、元亀元年(1570)に信長の越前侵攻によって織田家と断交した後、同年6月に朝倉軍と共に織田・徳川連合軍と前述のように姉川で戦っているが、この姉川での敗北後もしばらくの間は、志賀の陣に見られるように盛んに活動していた。しかし、織田方による盛んな調略などもあって家臣団に綻びが出始め、徐々に勢力を衰えさせていく。そんな中、貞征は元亀3年(1572)に信長自らの山本山城への攻撃も撃退するなどして浅井家を支えていたが、翌天正元年(1573)には調略に屈して城に織田軍を引き入れる。この寝返りが戦局に与えた影響は大きく、勢いに乗った織田軍の小谷城攻撃、他の武将の寝返りと小谷城後背にある大嶽城の陥落、越前からの援軍である朝倉軍の潰走、織田軍の追撃による朝倉家滅亡、そして小谷城陥落による旧主浅井氏の滅亡という、一連の流れの端緒を作った重要な出来事となったのだった。
 浅井氏滅亡後、貞征は本領を安堵されて山本山城に留まり、子貞大と共に浅井旧領を与えられた秀吉の与力に付けられたようだ。しかし、秀吉とは竹生島を巡っての対立などがあって折り合いが悪く、後には信長付きとなって伊賀攻めなどに参陣している。天正10年(1582)の本能寺の変後は、親子で明智光秀に味方し、長浜城攻めや山崎の合戦にも従軍しているが、光秀没後は居城に退き、秀吉軍の攻撃を受けて落城、族滅された。また、城もこれ以降、廃城となっている。
 現在は、東南の山麓に朝日山神社、中腹に朝日山常楽寺があって、宗教的な静かな雰囲気があるほか、昼間には朝日小学校から子供の声なども聞こえてくるので、当時は激戦があったということを想像するのは難しい。まさに、兵どもが夢の跡、といったところか。
 最初に訪れた時は、朝日山神社のところから常楽寺の辺りまで登ってみたが、琵琶湖1周の途上であったので時間が無く断念し、2度目は宇賀神社の脇から登ってみたが、夕闇迫る時間で帰りに登山道を見失いそうだったので、泣く泣く引き返した。電車とバスで行くなら、宇賀神社の前のバス停が山本山登山口というバス停なので分かり易い。どちらも途中から同じ道となり、山本山から賤ヶ岳まで登山道が続いているらしいので、一度ゆっくりと1日かけて山歩きをしてみたいが、実現するのはいつになるのだろうか。