賤ヶ岳古戦場
所在地  滋賀県木之本町
北陸道木之本I.C.西2km
最終訪問日  1995/8/22
 本能寺の変後、織田信長の実質的な後継者を決めた、天正11年(1583)の柴田勝家と羽柴秀吉の戦いが行われた古戦場。
 天正10年(1582)の本能寺の変で信長とその嫡男信忠が横死した後、山崎の合戦で明智光秀を降した秀吉と、織田家の重鎮であった勝家は、6月27日に開催された清洲会議で争ったが、嫡孫三法師を擁した秀吉が勝った。ただ秀吉は、三法師が入る安土城から近く、自らの居城でもあった長浜城を勝家に譲り、ある程度の譲歩を見せた。勝家も対決は翌年と予想し、冬の前に秀吉と和睦をしたが、秀吉は勝家が雪で動けなくなるとすぐに長浜城の柴田勝豊、岐阜城の神戸信孝、伊勢の滝川一益を攻めた。
 勝家は、春の雪解けを待ってようやく越前から近江に出兵したが、雪を掻き分けて進む行軍だったという。一方の秀吉も北近江へと兵を進めて対峙し、睨み合いは1ヶ月にも及んだが、後方で伊勢の滝川一益が美濃に侵攻し、神戸信孝が再び反旗をひるがえした為、秀吉が主力を率いて美濃に向かった隙に、佐久間盛政が4月19日から翌日にかけての深夜に大岩山の中川清秀の陣へ夜襲をかけて勝利し、清秀を敗死させた。勝家はすぐに元の陣に戻るよう盛政に命じたが、血気に逸る盛政は緒戦の勝利で得た大岩山などに隊を留まらせ、これが結果的に勝負の行方を左右する。
 この大岩山と高山右近重友が守っていた岩崎山の敗報を聞いた秀吉は、大垣からすぐさま引き返して50km余りを5時間で駆け通し、20日のうちに木之本に現れた。そして、その深夜から翌日にかけて、俗に七本槍三振太刀と呼ばれる近習衆にまで攻撃を指示し、敵陣深く入り込んだ形になっている盛政隊を攻撃した。盛政隊は、秀吉本隊の到着を知り、20日の深夜からあわてて退却をはじめ、盛政の弟柴田勝政隊の救援を受けながら善戦したが、前田利家、利長父子が単独後退したこともあって支えきれず、これを見た後詰の部隊も退却を始めて勝家軍は総崩れとなり、戦いは秀吉の勝利に帰した。
 戦いは賤ヶ岳一帯を含めた広大な範囲で行われた山岳戦で、賤ヶ岳だけの合戦ではない。賤ヶ岳自体には、最初は秀吉方の桑山重晴が砦を築いて守っていたが、中川清秀の敗死で20日の日没後に撤退し、その日の夜中に戦いが開始されると、丹羽長秀などと共に再び賤ヶ岳へと登って陣した。その後、総攻撃する秀吉本隊の拠点となった為、賤ヶ岳の合戦という名が付けられている。
 賤ヶ岳山頂から見える余呉湖近くには、勝家を守って戦死した毛受兄弟の碑も建ち、反対側の琵琶湖、竹生島、余呉湖の眺望もすばらしい。また、リフトもあって登山は楽なので、標高が約422mといっても、割と気軽に登れるところでもある。