佐和山城 所在地 滋賀県彦根市
国道8号線佐和山トンネル付近
区分 山城
最終訪問日 2001/8/26
佐和山城址碑 築城は鎌倉時代初期で、佐々木定綱の六男、佐保時綱が館を構えたとある。ただし、館は山麓の可能性が高く、山頂にはせいぜい砦程度の詰があったに過ぎないと考えられ、城としての体裁を整えたのは少なくとも鎌倉時代末期から南北朝時代以降と思われる。
 城として重要になってくるのは戦国時代に入ってからで、その歴史は詳らかではないが、六角氏、京極氏、浅井氏の争いに伴って次第に改修築城されていったと見るのが妥当だろう。永正年間(1504-21)から大永年間(1521-28)にかけては、六角氏が高頼から定頼の代にかけての全盛期で、北近江の一族京極氏や台頭してきた浅井亮政と争っており、また、重臣小川氏を佐和山城に配していたことから、改修による城の強化があったと考えられる。ちなみに、関ヶ原の合戦の際に名が出てくる小川祐忠は、この小川氏の流れという。
 その後、亮政の代と思われるが、天文年間(1532-55)には浅井家臣となった磯野氏が城主に就いており、浅井家の勢力が広がったようだ。亮政が没した後、浅井家はしばらく六角家に臣従していたが、六角家も定頼の子義賢の代になると衰え始め、永禄3年(1560)には亮政の孫長政が野良田の合戦で六角軍を破って独立を果たし、翌年にも佐和山城で両軍が戦っている。この長政時代の佐和山城は、家中でも指折りの猛将である磯野員昌が城主を務め、対六角氏の前線になっていた。その後、長政が信長の妹お市を室に迎えて織田家と婚姻し、信長の上洛戦で六角氏が事実上滅んからの数年間は平穏であったが、信長の越前侵攻によって織田家と浅井家が断交すると再び佐和山城は浅井家の境目の城となった。
 元亀元年(1570)6月28日、朝倉氏と浅井氏を討伐すべく、信長は徳川家の援軍を得て姉川で戦い、勝利した。この戦いで員昌は、異説もあるが大いに活躍して織田・徳川連合軍を苦しめたという。しかし、合戦の趨勢が決まった後、員昌は手勢を引き連れて囲みを破り、居城佐和山城へ撤退したが、長政の本拠小谷城との間に位置する横山城を織田方に奪われ、孤立してしまう。その後、包囲されて戦況が悪化するばかりか、長政にも猜疑の目で見られるようになって補給も滞るようになった為、8ヶ月の籠城の末に降伏した。
 員昌の降伏を受けた信長は員昌を赦し、京と岐阜を結ぶ街道を扼するこの城を重要視して、譜代の重臣丹羽長秀を城主とした。長秀は、安土城築城の際もここから指揮を執り、天正10年(1580)の本能寺の変の後まで居城としている。本能寺の変の際には、長秀の下にあった元若狭守護武田元明が光秀と通じて城を落としたが、光秀敗北後に長秀に奪い返され、清洲会議後は堀秀政、堀尾吉晴を経て天正18年(1590)かそれ以降に石田三成が城主となった。三成は五層の天守を中心に、本丸から大手方向の東へ二ノ丸と三ノ丸、美濃殿丸、南に太鼓丸と千畳敷、その他にも西ノ丸や法華丸などを整備し、三成に過ぎたるものとして島左近と共に挙げられるほどの堅固な名城になったという。
 しかし、三成が西軍の事実上の総大将となった慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の本戦後、三成が行方不明のまま関ヶ原から西へ向かう東軍の第一目標となり、留守を守る三成の父正継や兄正澄が奮戦するも、小早川秀秋隊などの猛攻によって落城した。この時に城内の多くの女が身を投げたといわれる谷には、女郎谷の名が残っている。
 関ヶ原の合戦後は、中山道と北陸道を扼す要衝である為、徳川四天王のひとり井伊直政が入ったが、直政は関ヶ原の合戦での島津追撃の際に負った傷が元で翌々年に死去した。跡を継いだ子の直継(直勝)は、直政の死の翌年にその遺志を継いで彦根城築城に着手し、彦根城が一応の完成を見た慶長11年(1606)に役目を終えた城は廃城となった。
本丸の平坦地 現在の城跡には、彦根城築城の際に資材が持ち出されるのと同時に石田色を消すように城の破却も行われた為、殆ど石垣も無く、千貫井のみが当時の面影を残している。城の大手は東側に向かい、東山道と北陸道に対する抑えとしての役割を如実に表しているが、大手からの登山道はあまり整備されていないらしい。ただし、大手門付近には土塁や堀跡が残っているという。自分が登ったのは国道8号線から出ている道で、頂上部の本丸は整備されて彦根城も見下ろせたが、その他の郭は、行ったのが夏ということもあって下草が深く、散策を断念した。