音羽城 所在地 滋賀県日野町
日野町役場東南4km
区分 山城
最終訪問日 2001/8/27
今は遊具がある本丸跡 中世蒲生氏の居城で、蒲生貞秀によって応仁の大乱期に築城されたとも、その父秀綱が15世紀初頭の応永年間(1394-1428)に築いたともいわれ、鎌倉幕府草創期の築城という伝承さえある。
 蒲生氏は、古代に見える蒲生稲置の末裔ともいわれるが、その系図では、近江国田原に住んで田原藤太と名乗った藤原秀郷の、その次男の流れである惟俊が蒲生郡に住んで名字にしたのが最初という。惟俊の子俊賢は源頼朝に、そのさらに6代の子孫秀朝は足利尊氏に従って功を挙げ、蒲生氏は近江国日野周辺に勢力を培った。
 音羽城を居城としていた頃の蒲生氏は、近江守護であった佐々木六角氏の家臣として信頼され、当主貞秀は事あるごとに頼られる存在であった。明応5年(1496)の戦いでは斎藤氏と京極氏の連合軍をこの城で退け、有名な文亀3年(1503)の伊庭の乱では、観音寺城を逃れた六角高頼を城に迎え、伊庭貞隆とこれを支援する細川政元家臣赤沢朝経の軍勢を相手に城を支えた。
 この貞秀には3人の子がおり、それぞれ嫡子秀行は将軍家へ、次男高郷は六角氏に、三男秀順は管領細川氏に仕えさせていたが、嫡男秀行は早世してしまい、貞秀の死後、その跡目は嫡孫である秀紀と高郷の間で争われた。大永2年(1522)のことである。この時、高郷の主君で高頼の次男である定頼がこれを支援し、高郷と定頼の連合軍は8ヶ月の籠城戦の末、翌年3月に音羽城を降伏、落城させた。これによって蒲生氏嫡流の没落と共に城は廃城となり、高郷の系統は蒲生家惣領となって日野城に本拠を移した。ちなみに、この高郷の曾孫が信長や秀吉に仕えて有名な氏郷である。
 城は小規模ながら大きな平坦部を持つ本丸を中心に小郭が確認され、土塁や空堀などの遺構もかなりよく残っており、中世的な戦国時代初期の山城としては規模はそこそこ大きいようである。城がある山は峰の突端部にあたり、標高は100m未満で高くはないが、山頂付近と中腹に遺構があり、眼下に日野川の崖と背後に宝殿ヶ岳を擁した要害であった。
 現在は城跡一帯が公園となっているが、付近の道路は交通量も少なく、訪れた時は誰も公園にいなかった。おかげでゆっくりと散策できたのだが、人がいない割によく整備されており、もしかしたら休日には家族連れが結構訪れたりするのかもしれない。