鯰江城 所在地 滋賀県愛東町
名神高速八日市I.C.北東2.5km
区分 平城・崖城
最終訪問日 2001/8/27
鯰江城址碑 愛知川沿いにある10m程の河岸段丘上にある城で、城郭内は平坦な平城の形式であるが、川の側から見ると平山城に見える。往時はもっと川が迫る崖であったらしく、いわゆる崖城であったのだろう。
 鯰江は鎌倉時代より荘園があったことが史料に残っており、比較的古くから発展した地方である。ただ、城がいつ頃築城されたかというのははっきりせず、現地案内板には六角家臣鯰江氏、森氏の居城とあるので、このどちらかが築いたものだろう。
 六角氏の家臣の鯰江氏は佐々木六角氏の支流で、六角満綱の子高久が鯰江に住んで地名を称したというが、案内板には荘園時代に興福寺領の被官云々とあるので、それ以前から鯰江を名乗った豪族は存在したらしい。この鯰江氏と六角系鯰江氏が全く別なのか、近江守護佐々木氏が在地の沙沙貴あるいは佐佐木と書く豪族と同化したと見られるように、佐々木系の血縁者を迎えて在地豪族を被官化したものかはよく判らない。ちなみに、高久はもとは三井乗定の婿養子で、その子孫は三井財閥の三井氏である。つまり、戦国末期の当主越後守高安は、後述する鯰江城籠城の際の六角旧臣のひとりともいわれ、六角氏没落後は伊勢へ逃げ、子高俊が商売を起こした。これが越後殿の酒屋と呼ばれ、越後屋の屋号のもととなる。その後、江戸や京にも店を出し、更に高俊の子高利が「現金掛値無し」や「店前売」といった新たな商法で大きく発展させ、財閥の象徴三井総本家の祖となった。
 鯰江氏の主君であった六角義賢は、足利義昭を奉じて上洛する信長から協力を要請されたが、宿敵の浅井氏と同盟している信長に協力するはずがなく、信長に対抗した。しかし、永禄11年(1568)の信長による近江侵攻で、六角方の想像を超える兵力によって支城網は蹂躙され、義賢・義治父子は戦うことなく居城観音寺城を放棄して甲賀に潜んだ。これは、幕府軍に対して祖父高頼が取った作戦と同じで、以降義賢は度々再興の行動を起こしているが、最も有名なのは元亀元年(1570)の暗殺未遂事件である。この事件の直前、信長は朝倉攻めの際に浅井氏の寝返りによって京へ退却したのだが、更に美濃へ帰国する為に近江千種峠越えをする信長を杉谷善住坊が狙撃したのだ。この善住坊は、甲賀五十三家にある杉谷家と関連があると思われ、甲賀と義賢の濃密な関係を窺わせる。
 しかし、それらの行動は事態を打開するに至らず、義賢は最終的に武力蜂起してこの鯰江城で鯰江満介や同貞景ら六角旧臣に迎えられて籠城したが、天正元年(1573)に落城し、六角氏は完全に近江から姿を消した。落城後の満介や貞景の動向は不明だが、後に秀吉に仕えた定春という人物は落城後に鯰江の森村に住んで森を名乗っており、事跡から考えると貞景と同一人物の可能性もある。また、城も落城後に廃城となった。
 城は、信長の上洛があった永禄11年(1568)に、六角義治が満介に命じて森氏の居城だった鯰江城を改修させたとあり、発掘調査では石積みが発見されている。これは当時、大名の主城クラスにあったもので、鯰江城の改修が六角氏主導で行われた証だろう。また、鯰江城が森氏の居城で、定春や弟の子高次が森と名乗っていることを考えると、鯰江氏と森氏は同族だったのではなかろうか。ちなみに、高次の子高政は毛利輝元に気に入られて毛利姓を与えられ、豊後佐伯藩の藩祖となっている。
 現在は川沿いの道に表示があるだけで、遺構はほとんど残っていない。ただ、地形として河岸段丘が残っており、その上の集落がほとんど城跡にあるので、それらの地形をどのように利用していたか大まかに推測はできる。また、土塁なども一部に残っているらしく、それらしきものはあるにはあったが、見た限りでは後世に造られたものか判断がつかなかった。