長浜城 所在地 滋賀県長浜市
JR長浜駅西300m豊公園内
区分 平城・水城
最終訪問日 2000/4/25
復興天守と城址碑 長浜城の前身である今浜城は、バサラ大名として名を馳せた京極道誉こと佐々木高氏の家臣、今浜六郎左衛門が南北朝時代の建武3年(1336)に築いた。
 この今浜氏は、今浜に勢力を持っていた在地豪族だったが、後には坂田郡上坂田を本拠とする上坂氏に取って代わられたらしく、上坂氏は本拠である上坂城と同様にこの今浜城を重要な拠点とし、後には居城とした。
 上坂氏は、京極家中でも執権職に就くほどの重臣で、戦国時代には景重、家信、信光などの名が史料に見える。時代的に景重と家信は同一人物かと思われ、信光は家信の子であり、この父子は京極家の家督争いの際に重要な役割を担うのだが、この家督争いで今浜城も幾度か戦場となり、文亀元年(1501)には京極高清を擁した景重が今浜城に籠城して国人連合を破ったほか、大永3年(1523)には高清の次男高吉を擁する信光が国人連合に敗れて落城し、城を追われている。そして、上坂氏没落後に台頭したのが、国人連合に参加した浅井氏であった。
 浅井氏時代の城主はよく判らなかったが、天正元年(1573)の小谷城陥落による浅井氏滅亡後、旧浅井領を与えられたのは攻城に功を挙げた秀吉で、秀吉が新たに城を築いて居城としてから城は有名となる。秀吉は、峻険な山城である小谷城の防御力よりも北国街道や湖上の交通を重視し、小谷城の資材や竹生島の材木を使用して新たに今浜の地に城を築き直し、同3年(1575)の完成と共に本拠とした。その時に信長から一字を拝領して長浜と改名している。
 秀吉は、中国方面の軍団長として黒田孝高から献上された姫路城を拠点としていたが、本城はあくまでこの長浜城であり、妻お寧を始めとする一族もこの城に居た。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変後には、本拠地であるが故に明智光秀に味方した阿閉貞征などに占拠されており、清洲会議で柴田勝家に対する妥協点として城が明け渡されたのも、織田三法師の居城安土城に近いという理由の他に、秀吉にとっての所縁の城ということもあったからである。
 清洲会議後、長浜城主となったのは勝家の養子勝豊であったが、雪によって北陸との連絡が途絶えた同年12月、秀吉は電光石火の出陣で長浜城を囲み、開城降伏させた。敵地に突出し、雪で援軍も期待できない上、養子間での対立で勝家から心の離れていた勝豊にとっては、抗戦せずに降伏臣従というのは止むを得ない選択であった。
 翌天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦後、一帯は堀秀政の属領となり、同13年(1585)になって山内一豊が若狭国高浜から移ってきた。山内家の文書では、この前年にも1度長浜城主になっていたというが、実際のところはよくわからない。この一豊が遠江国掛川に移った後は、佐和山城主石田三成の属城になっていたと思われ、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で三成が滅んだ後は空城となっていたようだ。その為、同11年(1606)に内藤信成が入封して長浜藩が成立した時に改修が施されている。その後、子信正が元和元年(1615)に高槻へ移動し、城は一国一城令で破却された。
 彦根城築城の際に資材を持ち出す為に船が接岸しやすいよう地形が大幅に変えられ、明治時代にも長浜止まりだった鉄道の連絡船として大津長浜間に航路が設定されたた為、長浜港開港で内堀が開削されるなど、当時の城域には大幅な改変が加えられており、一部は湖水に沈んでいる。当時は、湖に接した水城の形で、岐阜を本拠地としていた信長が、京都へ上る際に長浜から坂本まで船で移動したという記述が資料に多く残っており、安土城築城後も湖上交通の要として重要視されたようだ。ただし、城の縄張がどのようであったのかというのはあまり判っていない。城には後に天守閣が建てられたが、現在の模擬天守から北西へ50m程の所が当時の天守であり、現在の石垣は散らばっていた石垣の残骸を積み直した物である。また、琵琶湖の渇水時には、太閤井戸と呼ばれる城の井戸を見ることもできる。
 現在の豊公園内の復元天守は資料館を兼ねており、そこからの琵琶湖の眺望は素晴らしい。城自体の遺構は寂しいものだが、長浜市内には僅かながらかつての城下町を偲ぶことができる場所もあり、大きくない街なので、徒歩で散策するのがいいかもしれない。