水口岡山城 所在地 滋賀県甲賀市
近江鉄道水口駅東南700m
区分 山城
最終訪問日 2001/8/27
麓の登山道入口にある城址碑 往時は水口城と呼ばれていたが、後に同名の城が西に築城された為、水口岡山城、もしくは水口古城と呼ばれる。また、現地の城址碑には単に岡山城とだけある。
 天正13年(1585)、八幡に入城した羽柴秀次の補佐役として中村一氏が水口を与えられ、秀吉の命により築城した。以後、東国から京へ繋がる東海道を扼す城として、天正18年(1590)に増田長盛、文禄4年(1595)には長束正家が城主に据えられ、所謂近江閥にとっての出世城となった。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、正家は西軍に与して伊勢攻略戦を毛利秀元ら共に戦い、本戦では南宮山東麓に陣を敷いたが、戦場との間に陣取っていた吉川広家隊が動かず、結局戦闘に参加できないまま西軍壊滅によって水口城へ退却した。そして、進軍してきた池田輝政・長吉兄弟の軍に包囲されると城に火を放って自刃し、城も落城した。
 城はこの落城で廃城となり、これ以降、水口は幕府直轄地の宿場町として発展する。再び城下町となるのは、寛永11年(1634)の将軍家光の宿泊所としての水口城築城を経て、天和2年(1682)に水口藩が成立する約80年後のことであった。
 この水口城に関しては、有名な逸話がある。それは、石田三成が水口に4万石を与えられ、猛将として名高かった島左近勝猛を知行の半分の2万石で迎えたという話である。しかし、三成が水口を領したとすれば一氏以前の3年間の話となり、少なくともこの城の築城以前の話となる上、4万石という知行がネックとなる。例えば、天正13年(1583)の賤ヶ岳の合戦で功を挙げた七本槍の中で、戦後に最も知行を与えられた福島正則と加藤清正が5千石である。秀吉子飼の武将のトップクラスでこの程度なら、天正13年(1585)の四国征伐や同15年(1587)の九州征伐という大規模戦の後方支援で頭角を現す文治派の三成が、賤ヶ岳の合戦後の2年間でそれほどの知行になるとは考えにくい。恐らくは、佐和山城主時代の逸話に昔の石高が混じったか、水口に関わるとしても城主ではなく代官であったのではないだろうか。
 新しい水口城造営の際に石垣などの資材が持ち出された為、現在の城跡には殆ど石垣が見当たらないが、当時は石垣造りの近世山城であったはずで、現在でも僅かながら残っている。城のある大岡山はお椀型の山の為、麓や中腹が急峻な割に山上の郭は大規模に取ることが可能で、山頂とそこから続く峰に直線的に郭を配し、各郭はなかなか広い。城には大きく6つの郭があり、それぞれの間には堀切などもあって、石垣が持ち出されたことを除けば保存状態はなかなか良好と考えられる。現在は公園として整備されてはいるが、郭間の勾配を利用した滑り台などがあって史跡公園という整備の仕方ではなく、城跡としては少し惜しい感じだ。