水口城 所在地 滋賀県甲賀市
近江鉄道水口城南駅西北250m
区分 平山城
最終訪問日 2001/8/28
資料館の敷地となっている本丸番所跡 寛永11年(1634)、将軍家光は京への上洛に先立ち、新たに水口に宿館を築かせた。これが水口城の始まりで、築城は遠州の官名で有名な小堀政一が担当したという。
 家光上洛後は、城番が管理する番城となっていたが、天和2年(1682)になって加藤明友が入封し、水口藩が成立した。しかし、明友は将軍を憚って本丸には入らなかったという。その後、一度鳥居氏と交替があったものの、加藤氏が再入部し、維新まで続いた。
 城は、堀で囲まれた本丸と、北側にあった二ノ丸で構成され、近世の典型的な平城のようだが、野洲川の河岸段丘上にあるらしく、南側には10m程度の高低差があり、これを考えると平山城としての形式も備えている。ただ、江戸時代の天下泰平の時に造られ、宿館から出発したということもあって、高低差があるとはいっても防御に関する意識は薄かったのではないだろうか。本丸を廻る堀は深く、湧水があって水を常に張ってはいるが、これも防御の為というより、近代城郭における形式的な構造を踏まえただけのものと思われる。
 堀の内側の本丸を含む主郭部分の形は、凸型で東を向いており、その凸の張り出した部分、つまり本丸の出桝形にあたる出丸と、正方形の本丸との境目に大手御門があった。本丸には四隅に隅櫓が上げられ、北の部分には北御門があり、出丸から伸びる橋と、北の二ノ丸へ繋がる北御門からの橋の2本で、主郭部は堀の北側と繋がっていたという。二ノ丸は藩の政庁の機能があり、御殿なども建てられていたが、堀で区画されたりはしていなかったらしく、泰平の城らしい造りである。
 明治7年の廃城の後、四隅の櫓は民間に払い下げられ、石垣の石も近江鉄道の敷石として持ち出されるなどした為、現在も遺構として残っているのは本丸を巡る堀と乾櫓の櫓台、及び出丸の石垣のみで、それほど多くは無い。本丸跡は学校のグラウンドとして使われており、出丸の番所跡に建つ資料館が城としての雰囲気をなんとか保っている。この資料館は、払い下げで民間に渡っていた乾櫓が寄贈された後、その古い部材も利用しつつ乾櫓を模して建てられた木造の建物で、木造独特の雰囲気を醸し出しており、模擬とは言え、悪くない感じだ。また、ボランティアで地元の人が案内員をしていたり、ビデオを見ているとお茶を出してくれるなど、アットホームな資料館だった。