朽木谷城 所在地 滋賀県朽木村
山神橋北東300m県道23号線沿い
区分 平山城
最終訪問日 2001/8/24
陣屋跡の入口にある冠木門 北川と安曇川の合流点近くの丘にある城で、豪族朽木氏の居城であった。
 朽木氏は、鎌倉時代初期の近江守護であった佐々木信綱の子で、高島郡田中郷を領して高島を称した高信の次男頼綱を祖とする。朽木を得たのは信綱の時で、承久の乱を討伐した功によって与えられ、やがて朽木荘を相続した頼綱の子義綱の頃である弘安10年(1287)より朽木を称したという。ちなみに、高信の兄弟である泰綱は六角氏の祖、氏信は京極氏の祖である。
 朽木は京に近く、北陸と京を結ぶ有名な鯖街道を扼す位置にあることから、朽木氏は近江国高島郡周辺に力を持っていた高島七頭のひとつに数えられた。また、元弘の乱以降は足利尊氏に一貫して従ったことから、室町時代には足利将軍家に側近として仕え、京に戦乱が起こる度に義澄、義晴、義輝といった歴代の将軍をこの地に迎えている。つまり、六角氏が危機的状況になる度に甲賀地方へと逃げたように、将軍家における甲賀的な避難潜伏場所として朽木は機能していたようである。
 近江国内の情勢としては、近江の守護である六角氏に定頼が出て大きく勢力を伸張させると、その頃の当主稙綱は幾度か抗するも、やがて独立を失ってその影響下に入ったらしい。稙綱死後、子の晴綱は同族で惣領にあたる高島越中守と戦って早くに討死し、幼少ながらその子元綱が当主となったが、永禄3年(1560)、六角氏が臣従させていた浅井氏に野良田の合戦で敗れて弱体化すると影響下から脱し、浅井長政と和している。この時、千石の知行地増加があったことから、恐らく浅井氏と半独立の緩やかな従属的盟約を結んだと思われる。また、足利義昭が信長の後援で上洛して以降は義昭に仕えたようで、元亀元年(1570)に信長が義弟長政の離反に遭って越前から京へ落ち延びた際には、元綱がこの朽木谷越えを先導している。
 天正10年(1582)の本能寺の変後、元綱は豊臣秀吉にも仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では当初、敦賀を領していた大谷吉継の指揮下で西軍についていたが、小早川秀秋の裏切りが起こった後、連鎖的に脇坂安治、小川祐忠、赤座直保と共に東軍に寝返って大谷軍を破り、9595石の領地を安堵された。
 江戸時代に入り、寛永9年(1632)の元綱の死後、遺領は3子に分割され、嫡男宣綱が本家分6740石を、次男友綱が2015石を、三男稙綱は1110石を相続した。本家筋である宣綱の系は旗本として明治まで続き、三男稙綱は将軍家光に仕えて信を得、後に取り立てられて大名となり、その子孫は福知山藩主として維新を迎えている。
 発掘調査では、陣屋跡とされる場所から中世の居館城郭の痕跡が発見され、同じ位置に中世から近世まで拠点があった事が判った。資料館で貰った資料には、義綱の子時経が元弘2年(1332)に初めて陣屋を構えたとあったが、発掘調査では少なくとも15世紀初頭には存在したことが判明しており、築城時期にそれほどの誤差はないものと思われる。ただし、朽木谷には岩神館という居館もあり、一貫して居城であったわけではないようで、朽木谷城の後背には西山城という詰城も構築されていた。また、江戸期には朽木氏が旗本となった為に陣屋と称し、城からより政庁色の強い陣屋へと改修され、維新まで存続しているが、改修がどの時期に行われたかは不明で、一説には陣屋に改修される前は複数の多聞櫓を備えた城であったとも伝わっている。
 陣屋の構造は、前面に石垣と水堀、高土塁を備え、左右は空堀、背面は空堀と高土塁で囲われていたようで、2町四方の敷地があったといい、地元の古老の話では左側にも石垣が用いられていたという。現在は陣屋跡の一部が史跡として整備され、入館料無料の郷土資料館やグラウンドがある。遺跡としては部分的に井戸や土塁が残り、僅かながら石垣なども確認できるが、全体的な陣屋のイメージを捉えるのは難しい。