観音寺城 所在地 滋賀県近江八幡市
JR安土駅東2.5km観音正寺後背
区分 山城
最終訪問日 1996/10/13
 繖(キヌガサ)山に築かれた山城で、名門近江源氏佐々木氏の本拠地。
 佐々木氏は、宇多天皇の皇子敦実親王の子で宇多源氏の祖となった源雅信の裔である。その雅信の孫である成頼が近江国蒲生郡佐々木荘に住して佐々木を称し、一党は佐々木源氏や近江源氏と呼ばれた。ただし、この源氏の流れと沙沙貴あるいは佐佐木と書く当地の豪族が同化していったと見られることから、系図が明確なわけではない。
 やがて世は貴族の時代から武家が台頭する時代へと移っていくが、佐々木氏も武士として力を蓄え、当主秀義は保元元年(1156)の保元の乱と平治元年末(1160.1)の平治の乱で源義朝に与した。しかし、平治の乱で義朝が平清盛に敗れると、秀義も没落して関東に逐電したという。やがて、義朝の子頼朝が挙兵すると、秀義は子と共に参加し、鎌倉幕府草創の功臣として各地の守護職に補任され、佐々木氏は隆盛となった。秀義の孫信綱は、承久3年(1221)の承久の乱で幕府側として功を挙げ、次男ながら惣領となり、その4人の子はそれぞれ家を立てて、長男重綱が大原氏、次男高信が高島氏を名乗り、嫡流は三男の泰綱が継いだ。この泰綱の流れが後の六角氏、四男の氏信の家系が後の京極氏となるが、六角氏も京極氏も、京都の邸宅があった場所がその名の由来となっている。
 元弘の乱から鎌倉幕府崩壊の過程では、当主時信が最後まで幕府に味方した為、足利尊氏を初期から支えた庶流京極家の当主高氏の後塵を拝した。この高氏はバサラ大名として有名な佐々木道誉のことで、一時は近江守護職にもなったが、時信の子氏頼が近江守護となり、以降はほぼ六角氏が世襲している。また、観音寺城が歴史上に姿を現すのは氏頼の頃で、建武2年(1335)に氏頼が北畠顕家の来襲に備えて籠ったと太平記にあり、この頃にはすでに存在していたのは間違いない。
 六角氏が室町時代を通じて近江守護を継承したとはいえ、京極氏も江北3郡の守護権を持ち、他国の守護にもなるなど、総じて京極氏のほうが強勢で、しかも、六角氏の領国には比叡山と三井寺があった為、領国経営は必ずしも安定的ではなかったようだ。また、室町中期になると家督争いが度々起こるようになって勢力を衰えさせ、応仁の乱では、応仁2年(1468)に家督を狙う六角政堯と京極氏の連合軍に一時城を落とされるなどしており、近江守護をこの政堯、次いで六角氏ですらない京極持清に奪われるほどであった。
 この六角家を戦国大名化したのは高頼と定頼である。高頼は、元服前から守護職にあったが、連合軍に奪われた観音寺城をすぐさま奪い返し、京極氏や一族との争いを抑えて支配基盤の強化を進め、応仁の乱終結後に守護へと返り咲いた。そして、その後も将軍家の2度に渡る討伐や重臣伊庭貞隆の叛乱を凌ぎ、次第に大名領国制を確立していったのである。高頼の跡は、兄氏綱の早世によって次男定頼が継いだが、定頼も大名領国制の確立を推し進め、観音寺城下に家臣団を集めて大永3年(1523)に史上初の城割りを命じ、城下を楽市にして商業活動を活発化させるなどの施策を実施、また、対外的には京極氏に代わって台頭した浅井氏を従属させ、12代将軍義晴擁立に参画するなど、六角氏の全盛期を築いた。
 しかし、定頼の子義賢は父ほどの才覚が無く、将軍家を巡る三好長慶との争いにもしばしば敗れ、やがて従属していた浅井氏の新たな当主長政にも永禄3年(1560)の野良田の合戦で敗退し、独立を許してしまう。こうなると坂を下るのは速く、義賢から家督を継いでいた嫡子義治が宿老後藤賢豊を謀殺した観音寺騒動により、家臣団の支持を失った義賢・義治父子は城を追われ、観音寺城に復帰した後も六角氏式目を家臣団と結んで専制権を制限されることとなる。そして、永禄11年(1568)には信長の上洛軍に父子で対抗するが、観音寺城の支城箕作城の陥落を知って戦うことなく城を落ち延び、堅城観音寺城はその機能を全うすることなく開城した。
 城自体の構造は、山全体に郭が広がり、まさしく全山城塞化という言葉に相応しい構造である。麓には東山道を見下ろし、本丸から南西に平井丸、落合丸、池田丸と続く郭を始めとして、家臣屋敷も包含した巨大な堅城は近江源氏嫡流の居城に相応しく、調査では、小さな郭を含めると800余もの郭があったという。廃城時期はいくつかの説があり、落城後しばらくしてからという説もあるが、この厳固さを知った信長が城の設備を維持し、安土城を平時の城、観音寺城を戦時の城として、有事の際には観音寺城へ籠もる構想を持っていたという説もある。
 現在の城跡には観音正寺や桑実寺があり、それぞれから城跡への道が出ているようだが、観音正寺からが一番分かりやすそうだ。ただし、参道は非常に峻険な石段となっており、今更ながら五大山城のひとつとして数えられていることを体で思い知らされる。観音正寺から北西方向に歩くと本丸があり、かなり大きな削平地とともに石垣が見られ、この本丸から尾根沿いに平井丸や落合丸、池田丸が並ぶ。これらには現在でも遺構が明確に残っており、その石垣は石塁と呼ぶに相応しい中世的なものではなく、織豊時代に築かれた巨石を使ったものに近い様式で、非常に威容がある。恐らくは支配下にあったと思われる穴太衆の石垣技術を流用しているのだろう。訪れたのは、時間の関係からこの辺りだけだったが、あくまで城の一部分に過ぎず、今度訪れる時は全山に広がる遺構を散策したいものだ。