彦根城 所在地 滋賀県彦根市
JR彦根駅北西1.2km
区分 平山城
最終訪問日 2001/8/26
本丸から三層天守 国宝四城の内のひとつ。
 徳川四天王のひとり井伊直政は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に近江東部を与えられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城一帯は、東国や北陸と京を結ぶ要衝で、過去にも名だたる武将が城主となっており、家康もまた、大坂の豊臣氏の監視という目的も含めて重臣である直政を封じたのである。ただ、佐和山城という城は、三成に過ぎたるものと称されたように当時は三成の城という印象が強く、また、関ヶ原の合戦直後に東軍の攻撃で落城し、荒廃してもいた為、直政自身は入部直後から城地を移したいと考えていたようだ。しかし、直政は関ヶ原の合戦の島津軍追撃の際に負った傷が元で翌々年に死去してしまった為、井伊家の家督は嫡男の直継(直勝)が継ぎ、幼少の身で家臣団の後見を得つつ父の遺志を引き継いで、慶長8年(1603)かその翌年から彦根寺のあった彦根山に築城を開始したのであった。
 城の普請は、12の大名が動員された、所謂天下普請で、資材は周辺の城からも集められ、その天守は大津城から移築された物であることが判明している。彦根城の天守がずんぐりしているのは、この移築の際、四層天守を三層にした為という。他にも、天秤櫓は長浜城にあったもの、三重櫓は小谷城の天守だったものといわれる。
 築城工事が天守閣完成によって一段落したのは慶長11年(1606)かその翌年とされるが、築城400年祭が2007年であることから、彦根では同12年(1607)の完成としているようだ。この天守完成と同時に直継が入城し、ようやく首城としての役割を果たすようになった。その後、同20年(1615)には大阪の陣で武功を挙げた弟直孝が、病弱で出陣できなかった兄に代わって彦根藩主となり、翌年には彦根藩の手による最終工事が始められ、元和8年(1622)に表御殿や城下町の町割りなどが完成して全工事が終了したという。
 城の構造は、南北に長い標高136mの彦根山を中心として主郭を置き、麓に沿って楕円形に近い形で内堀を穿ち、その外側にはほぼ方形に中堀と外堀を配して二ノ丸と三ノ丸を区画している。また、築城当初の仮想敵国であった大坂方面には、芹川に惣堀としての役目を負わせていた。主郭部は、天守のある本丸を中心として、西北に西ノ丸、南東に鐘ノ丸を置き、大手門と表門からの登城道は鐘ノ丸のところで一本化され、鐘ノ丸から天秤櫓を経なければ本丸には入れない。この天秤櫓への通路は廊下橋で、戦時には橋を落とすことによって本丸と西ノ丸を孤立させ、籠城時の防御力を高めることができるようになっている。また、西ノ丸には三重櫓を置き、その下の麓には山崎郭があって湖側を固めているが、当時は城の北に松原内湖が入り込んで今よりもっと湖に臨む形となっていた為、湖上からの攻撃に対する抑えであったのだろう。
 維新後、明治初頭の混乱の中で外堀が埋め立てられ、城も一時は陸軍省所管となっていたのだが、結果的に城は破却を免れた。これには、明治天皇が保存を指示したとも、大隈重信が保存を上奏したともいわれるように諸説あるが、詳らかではない。外堀はその後にも埋め立てがあり、ほとんど面影を残していないが、中掘より内側は完全に残っており、今では城の縄張をそのまま目で確かめることができる数少ない城となっている。内堀以内の城郭部分は、江戸初期の成熟した防衛施設の機能を見せてくれており、江戸時代の築城にしてはやや武張った印象があるが、これは竪堀などの中世的な防御機構と、石垣を組み合わせた立体的な近世的防御機構をうまく混在させているからだろう。一方で、二ノ丸や三ノ丸に目を移せば、典型的な近世平城の様式であり、大名庭園である玄宮園や安政の大獄で有名な井伊直弼が育った埋木舎などもある。全体的に考えれば、戦時と太平の過渡期に多く造られた典型的な平山城という風にまとめられるが、その中でも成熟したひとつの完成形と言えるだろう。
 個人的には、彦根城は天守が小振りなせいか、それ以外の場所に見所が多いと感じる。特に天秤櫓に繋がる廊下橋と鐘ノ丸、そしてその下の通路となっている大堀切の立体構造は、城好きには唸らずにはおれないだろう。また、車道となっているが、大手門の桝形の圧迫感や佐和口左右の多聞櫓の存在感というのは、車に乗っていながらでも通るだけで感じるほどだ。城以外でも、京橋口のキャッスルロードの景観が往時風に整えられており、城や城下町全体で当時の雰囲気を感じつつ散策が楽しめるようになっている。