安土城 所在地 滋賀県近江八幡市
JR安土駅北1.5km
区分 平山城
最終訪問日 1996/10/13
 天正4年(1576)、信長は琵琶湖に張り出していた独立丘陵の安土山へ築城することを丹羽長秀に命じ、3年の歳月をかけて壮大な天守を持つ城を出現させた。
 一般的に安土城の天守は、五層七階で金箔の瓦を葺き、最上階は金色でその下層は朱色の八角形をしており、内部は黒漆が塗られ、天守内の襖には狩野永徳による金碧障壁画が描かれて豪華絢爛を極めたものであったといわれている。また、加賀藩の大工に伝わった天守指図を根拠として、地階に仏塔があり、内部の幾層かを吹き抜けにしていたともいう。
 本格的な巨大天守はこの安土城からで、天主とも書き、信長は天主、つまりキリスト教におけるキリストのような神になろうとしたという説もあるほど、それまでの城郭建築に対しては特異かつ独創的であったようだ。しかし、完成3年後の天正10年(1582)の本能寺の変とその後の山崎の合戦による混乱の際、どさくさに紛れて本丸と天守が焼失してしまった為、詳細な城や天守の構造は未だに不明で、一般に安土城天守として広まっているのはあくまで復元想像された姿に過ぎない。当時の天守の参考となる史料としては、太田牛一の信長公記と、当時日本に滞在していたイエズス会の宣教師による手紙などの文献であるが、歴史家による解釈も一様ではなく、今後の新たな史料発掘が待たれるだろう。
 また、城が焼失した原因も謎に包まれている。本能寺の変の際には、安土城には蒲生賢秀が留守していたが、賢秀は信長横死を知ると信長の妻子を連れて本拠日野城へと退去し、代わって信長を討った明智光秀が接収した。そして山崎の合戦の際には、光秀の部将明智秀満が安土城を守備していたが、秀満は山崎の合戦での敗北を知ると光秀の本拠坂本城へと退却し、この時に馬を泳がせて琵琶湖を渡ったという湖水渡りの伝説が湖南東部に残されている。安土城焼失の原因としては、この秀満が退却の際に火を放ったとか、信長の子信雄が山崎の合戦後に安土へ入って焼き払った、もしくは誤って火を出してしまったなどといわれており、その他にも落雷説などがあってはっきりしていない。
 山崎の合戦後、信長の後継者を決める清洲会議が6月27日に有力家臣によって開催され、安土城には世継ぎとされた信長の嫡孫秀信が入城した。この時、秀吉所縁の長浜城は柴田勝家に与えられて勝家の甥勝豊が城主となっているが、これは主君の居城安土にほど近く、更に秀吉個人にとっても重要な城である長浜城を譲り、清洲会議を支配した秀吉が勝家も合意できるよう譲歩したことによる。その後、安土城の天守などが再建されないまま、賤ヶ岳の合戦で勝家を破った秀吉が実質的な信長の後継者となり、秀信は天正12年(1584)頃に坂本城に移ったといわれ、秀吉の甥で関白にもなった秀次が天正13年(1585)に八幡城を築く際、廃城となった。
 近年、全山的に発掘調査が行われ、秀吉や光秀、利家や家康などの屋敷跡が発掘されているが、遺構からは、大手道が桝形などのない直線で一気に大軍の侵入を許す大きな幅を持つなど、当時の常識を破るような独創的なものが多く、中世的な旧体制を打ち破っていった信長らしい発想が窺える。また、当時は現在の西の湖が北に大きく広がって琵琶湖と繋がっており、安土山は湖に突出した形で、安土城は水城のような防御力を持っていたと同時に、湖上交通に対しても便があった。このことは、琵琶湖の水運と地勢的な重要性を考えていた信長の視点を表すものだろう。
 今の周囲の地形からは想像しにくいが、巨大な天守閣がまるで湖に浮かぶ船のように当時は見えたといい、山を登って天守跡の礎石群を見ると、往時には確実にここに巨大な建造物が建っていたというのを強く感じることができる。現在の城跡には、当時からあったハ見寺が伝徳川邸の場所にあり、二ノ丸跡には信長の廟所もあって、僅かながら戦国の残り香がある一方で、全山には登山道が整備されて良いハイキングコースとなっており、かつて権力の象徴であった巨大な城があったというのが嘘のように長閑でもあった。個人的には、城を訪れてからかなり日が経ち、平成元年から行われている発掘調査の成果も出ているようなので、久々にじっくりと訪れたい城だ。