直鳥城 所在地 佐賀県神埼市
JR伊賀屋駅南東3.7km国道264号線沿い
区分 平城
最終訪問日 2014/10/19
直鳥環濠集落クリーク公園の鳥瞰図 佐賀県の平野部である佐賀平野は、大きくは筑紫平野と呼ばれ、かつてはその大半が海であった。縄文時代の頃は、縄文海進の影響もあり、現在の長崎自動車道の辺りが海岸線であったという。その後、海退と、筑後川やその支流、並行する諸河川が洪水などを繰り返しつつ土砂を運んで典型的な沖積平野を造り出した為、佐賀平野一帯は非常に水路が多い地域となった。筑後川の支流である城原川流域も同様で、その水路を複雑に組み合わせて防御の要としたのが直鳥城であるが、その前身は小規模な環濠集落であったようだ。これが筑後で勢力を築いていた蒲池氏の庶流犬塚氏の支配するところとなって次第に要塞化していったという。
 犬塚氏は、前述のように蒲池氏の庶流で、その本貫は直鳥城から9kmほど東南の三瀦郡犬塚である。その祖は一般に、宇都宮氏の出身で蒲池氏の名跡を継いだ久憲の孫家久が犬塚を領して名字にしたとするが、宇都宮泰貞の子家貞を祖とする説もあるようだ。ただ、家貞説でも宇都宮系蒲池氏とは同族で、それぞれの本貫も近いことから、庶族同族いずれにしても、蒲池氏から何らかの恩恵を受けていたのは間違いないと思われる。
 その後、後代の当主で同名別人の家貞の時に庶族を輩出し、嫡男家直が惣領の崎村城を継いで東犬塚家と呼ばれ、次男家重が蒲田江城を領して西犬塚家となり、四男家久は直鳥城を築いて直鳥家と呼ばれた。これが直鳥城の始まりであり、年代は永正年間(1504-21)の事という。また、勢力のあったこの三家を三犬塚と呼んだ。
 この頃、犬塚氏は少弐氏に属していたが、少弐氏と大内氏が争う中で少弐氏が衰退し、天文4年(1536.1)の少弐氏滅亡と、同9年(1540)の再興、そして少弐氏とその重臣龍造寺氏との確執という流れの中、三犬塚は次第に情勢に翻弄されるようになっていく。更に、天文20年(1551)には大内義隆が横死し、九州から大内氏の勢力が一掃され、代わって肥前に大友氏が進出した事から、状況はより一層複雑となった。
直鳥城本丸 永禄3年(1560)には、直鳥城主だった家久の子家清は大友氏に属し、筑紫惟門との戦いで嫡子尚家と宝満岳で討死しており、直鳥家は概ね大友氏に属していたことが窺える。一方、東西犬塚家は、少弐氏の滅亡により、両家とも龍造寺家に属していた。だが、龍造寺隆信の勢力伸張により、永禄12年(1569)に大友氏の肥前侵攻を招くと、西犬塚の尚重が大友氏に転じた為、東西の犬塚家で深刻な対立が起こったと見られる。家清の跡を継いでいた次男鎮家は、当然ながら西犬塚の尚重を支持したのだが、やがて両家の対立は先鋭化し、尚重が東犬塚の鎮直を謀殺して自らも自刃する事態となってしまう。この尚重の自刃については、討死とも伝わることから、自刃としても恐らくは戦って追い詰められた上での事だったようだ。いずれにせよ、西犬塚氏は当主を失った為、鎮家が直鳥城から蒲田江城へと入城して引き継ぎ、鎮家は蒲田江城で龍造寺軍と対峙した。
 その後、翌年の大友氏の肥前侵攻を龍造寺氏が今山の合戦で破ったことから、大友氏の肥前での影響力は後退し、翌元亀2年(1571)春、鎮家は蒲田江城を龍造寺軍に攻められ、筑後へと逃れている。この時、直鳥城も当然ながら放棄され、城としての実質的な役目を終えたようだ。ちなみに、鎮家は後に龍造寺氏に赦されて蒲田江城に復帰し、南肥前攻略に先陣を切って活躍しており、龍造寺家中で両弾二島と称される猛将となった。
 直鳥城跡は、廃城後も集落として使われていたが、縄張がほぼそのままの形で使われたと思われ、現在でも複雑に入り組んだ水路が防御の要となっているのがよく解る。大きな平地は本丸跡以外に数ヶ所あり、これらに土塁を築いて防戦したとすれば、水路と合わさってかなり手強い城になっただろう。古くから伝わる地名を照らし合わせると、中心部から西に掛けてが城主居館で、各屋敷と名の付いた部分に重臣の屋敷、村小路や奥小路というのは武家屋敷や城下町といったところだろうか。
入り組んだ環濠と郭跡の様子 国道264号線の案内から存在を知り、急遽寄った城なのだが、当時の形状をよく残しており、見落とさなくて良かったと思える城だった。こういった佐賀平野独特の水路を多用した城は、犬塚氏の崎村城や蒲田江城も同様だったようで、更には龍造寺時代の初期の佐嘉城も同じような構造だったと推測されているという。直鳥城からは、佐賀平野の城の特徴がよく汲み取れ、そこから佐嘉城の初期の姿を想像するのもまた面白く、勝手に想像した頭の中の佐嘉城も、当たらずとも遠からじといったところだろうか。