蓮池城 所在地 佐賀県佐賀市
佐賀県庁東5.6km蓮池公園付近
区分 平城
最終訪問日 2014/10/19
江戸時代の蓮池城略図 肥前小田氏の居城で、かつては佐賀江川の湾曲した小曲と呼ばれる部分をそのまま堀として用いていた為、小曲城とも呼ばれる。
 蓮池小曲城を本拠とした小田氏は、関東八屋形にも数えられた常陸の名族である小田氏の庶流で、鎌倉府が一時断絶した永享10年(1438)の永享の乱の頃に当主をしていた小田持家の弟直家の系統という。この直家の子直光が、応永34年(1427)に肥前国神埼郡に下向して土着し、肥前小田氏の祖となると同時に拠点としてこの地に城を築いたとされる。ただ、持家が応永9年(1402)の生まれとされており、その甥直光が下向の頃に主体性を持った年齢とは考えられず、何らか特殊な事情があったのではないだろうか。持家は、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に加担したことで家勢を衰えさせており、この影響があったのかもしれない。
 これ以降の小田氏は、概ね少弐氏の影響下にあったようで、少弐家では満貞が永享5年(1433)に大内軍と戦って討死するが、その弟横岳頼房がその翌年に再興の兵を挙げると、当主貞光が頼房に味方して参陣している。この貞光の貞は、満貞からの偏諱と思われ、繋がりの強さが見て取れるだろうか。この後も、少弐氏の復帰戦や、その少弐氏復帰後も大内氏との争いが続き、少弐資元が龍造寺家兼らの活躍によって大内軍を撃退した田手畷の合戦でも、政光が少弐軍の一翼を担っている。
 だが、この田手畷の戦いでの勝利は大内軍を一時的に退けたに過ぎず、間もなく大内義隆は本格的に北九州攻略に着手し、結局、少弐資元は天文3年(1534)に屈服的な和睦を強いられた。そして、義隆は資元を欺いて領地を没収し、追い詰められた資元は梶峰城で戦うも、翌同4年(1536.1)に自刃して果ててしまう。これにより、少弐氏は一旦滅んでしまうのだが、この時、資元の子冬尚が、政光の祖父である資光を頼って蓮池城に落ち延びており、少弐氏からの信頼がいかに厚かったかがよく解る。
 蓮池城で冬尚を保護した資光は、少弐氏滅亡の因は大内氏との和睦を勧めた家兼にあるとして、同年冬に家兼を攻撃したが、この時は逆に蓮池城付近まで押し込まれ、敗れた。その後、冬尚は少弐旧臣の支援を集め、家兼にも協力を要請し、天文9年(1540)に家の再興に成功するのだが、家兼の勢力伸張に反発する家臣も多く、馬場頼周や神代勝利らが龍造寺氏排除を画策するようになる。そして、同13年(1544)に有馬氏に対して龍造寺一族を各地に分散出兵させて勢力を削り、翌年正月には水ヶ江城を包囲して家兼の一族6名を謀殺するのだが、政光もこれに加担したという。
往時のものと見られる蓮池神社境内の石垣 この後、家兼の旧領は分配され、政光もその功で家兼の居城であった水ヶ江城に入城したが、在城期間は短く、鍋島清房らの協力で家兼が再起の兵を挙げると、水ヶ江城はその第一目標として攻略され、政光は蓮池城に戻っている。史料によって差があるが、これは家兼追放の2ヶ月後とも、翌年の事ともいう。その後、龍造寺家では家兼が死去し、龍造寺本家の胤栄が天文16年(1547)に冬尚を筑後へ追放したが、胤栄も翌年に早世した為、家兼の曾孫胤信が家督を継いだ。そして、義隆の支援を受けて隆の字を貰い、隆信と名乗った。これが、後に肥前の熊と恐れられる龍造寺隆信、その人である。
 隆信の家督継承には龍造寺家中でも反対が有り、義隆が天文20年(1551)に大寧時の変で守護代陶隆房に討たれた直後、後ろ盾を失った隆信は土橋栄益の叛乱によって佐嘉城を追われるのだが、少弐旧臣らはこの動きに呼応し、政光も村中城の包囲に参加した。だが、隆信は曽祖父と同じく筑後の蒲池氏を頼って落ち延び、2年後にその支援で政光が城番となっていた佐嘉城を奪回する。そして、隆信はその勢いで蓮池城を攻撃し、政光は迎え討ったものの敗れ、籠城の末に降伏した。
 隆信の復帰によって、東肥前は龍造寺対少弐の色彩が明確となり、降将たる政光も龍造寺軍の一翼として少弐攻めに動員されることとなる。しかし、永禄元年(1558)の長者林での戦いでは、劣勢に陥った政光が隆信に援軍を要請しても反応は無く、隆信は傍観を決め込んだ。この為、政光は討死に追い込まれ、隆信はこれを見届けた後に勢福寺城攻略に取り掛かり、蓮池城にも兵を送った。隆信にしてみれば、少弐旧臣同士で削り合いをさせて潜在的な抵抗勢力を弱らせ、少弐氏滅亡後の領内運営を円滑にする目論見だったのだろう。こうして味方であるはずの龍造寺軍に攻められた蓮池城は、守将深町理忠がよく防戦して政光の子鎮光らを筑後に落とすことには成功したが、理忠も討死し、落城した。落城後は、隆信の弟長信が城を預かったという。
 翌年、鎮光は隆信に臣従し、龍造寺家臣として蓮池城に復帰した。しかし、永禄11年(1571)には梶峰城へと移され、代々の居城から離されることとなる。これには、大友氏への内通疑惑があったようだ。実際に元亀元年(1570)の大友氏侵攻の際、鎮光は大友氏に味方し、今山の合戦で大友氏が敗れた後、筑後に逃れている。一方、鎮光の後には長信が蓮池城に再び入って拠点とし、後には一時鎮光の養子となっていた隆信の三男家信が、家信の後藤家への入嗣以降には龍造寺一門の家晴が城主を務めた。このように、城には一門が常に入っており、かなり重要視されていたことが窺える。
 天正12年(1584)の沖田畷の合戦で隆信が討死した後は、鍋島直茂が城主として入るのだが、龍造寺家は直茂の主導で島津氏に降伏しつつ秀吉に通じ、同15年(1587)の九州征伐後は秀吉の意向もあって鍋島直茂が実権を掌握した。その直茂が同17年(1589)に佐賀へ移ると、代わって隆信の次男である江上家種が城主となり、家種が文禄2年(1593)に文禄の役で討死すると再び直茂の城となるが、実際の城の守備は直茂の姻族である石井一門が担ったという。そして、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった後、承応3年(1654)に直茂の孫直澄が佐賀城三ノ丸にあった支藩藩庁を蓮池城跡に移し、以降は蓮池藩の藩庁として存続した。
旧佐賀江川の流路である蓮池公園の池 戦国期の蓮池城の詳細な縄張は不明だが、現在の蓮池公園の東西の池が佐賀江川改修以前の流路であり、ここから南の滴形の流路を堀とした城だったという。郭としては、本丸のほか、3つの出城があったといい、平城ながらなかなかの堅城であったらしい。一方、江戸時代の蓮池藩庁は、中心の牙城の周囲を、城内と呼ばれる重臣や一門の屋敷がある区画が囲い、その外に武家屋敷や寺院がある郭内、更にその外に郭外と呼ばれる区画があり、惣構の構造を持った4区画の輪郭式の城だったようだ。牙城は、御殿のある部分と堀を挟んで東館の部分があり、現在の蓮池神社境内周辺が御殿、公民館辺りが東館だったという。こう比べてみると、小田時代の城は流路内側の南側が中心で、鍋島時代は川が蛇行する頚部が中心であり、中核部分はややずれているようだ。ちなみに、蓮池城の近世城郭への改修は、秀吉政権に組み込まれて以降と思われ、その頃に建てられた天守は、朝鮮出兵の際に名護屋城に献上されている。その後、2棟目の天守が建てられたが、これも慶長13年(1608)からの佐賀城総普請の際に移築された。
 現在の城跡は、蓮池神社と明治9年に整備された蓮池公園となっているが、佐賀江川が改修で直線化された為、城地を真っ二つにしている。戦国時代の遺構と見られるものは無く、江戸時代の遺構も数少ないが、蓮池神社東側に往時のものと思われる石垣があるほか、蓮池公園には藩主が練兵を視察したという男山と呼ばれる築山が残っていた。ちなみに、佐賀江川の蛇行は、水の滞留時間が長い為に水害の原因ともなるが、平時は潮の干満による逆流を利用した水運が利用できるほか、海水が押し戻す真水を水田に流せるという利点があった為、わざと残されていたらしい。つまりは、城と同じく、佐賀江川の改修も、社会システムの変遷の表れとも言えるようだ。