千葉城 所在地 佐賀県小城市
JR小城駅北東2.2km
区分 山城
最終訪問日 2014/10/19
千葉公園の千葉城案内図と展望台 肥前3郡を治めた肥前千葉氏の城で、牛頭山城や祇園城ともいう。ちなみに、小城の地名は、奈良時代に豪族が籠もった堡(オキ)から来たといわれ、早くから拓けていたようだ。
 肥前千葉氏は、坂東八平氏に数えられる桓武平氏良文流千葉氏の分かれである。肥前と関わりは、当主常胤が頼朝の創業に貢献して晴気荘を得てからであり、後には一門の泰胤が小城郡の地頭を務めた。この頃の千葉氏は、常胤から数えて5代目の頼胤がまだ幼く、泰胤らと共に上総千葉氏の秀胤が後見する体制だったが、一門最有力の秀胤が宝治元年(1247)の宝治合戦で滅ぶと、泰胤が主に対外的な責務を担うようになる。そして、泰胤の娘が頼胤の室になったことで、小城郡の地頭職も頼胤に継承された。
 頼胤の代はちょうど元寇の頃で、元の襲来が現実味を帯び始めた文永8年(1271)、幕府は九州に領地を持つ御家人に異国警固番役を命じ、小城郡の地頭であった頼胤も、この命で九州へ下ることとなる。これが、千葉氏が肥前に定着するきっかけとなった。ただ、頼胤自身は同11年(1274)の文永の役で傷を負い、翌年にそれが元で死去した為、土着化した直接の要因は、子宗胤が急遽役目を引き継いで九州に下り、後に大隅守護への任命などで帰れなくなってしまったことによる。また、これに伴い、下総の千葉本家は残った宗胤の弟胤宗が継いだ。
 南北朝時代に入ると、宗胤の子胤貞は北朝方に属して本宗の奪還を志向し、南朝方に在った胤宗の子貞胤を攻めた。貞胤は後に越前で北朝方に降伏し、胤貞の本宗復帰が成功するかに見えたが、直後に胤貞が病没してしまい、結局は貞胤の系統が本宗家を相続することとなる。また、胤貞の子は早世が続いたものと見られ、小城郡は胤貞の弟胤泰が保ち、これによって肥前千葉氏の分立が確定した。
 千葉氏はその後、15世紀中頃に全盛期を迎え、勢力は小城、佐嘉、杵島の3郡に跨り、小城は小京都と称されたという。当主で言えば胤泰の孫胤鎮とその子元胤の頃であるが、永享9年(1437)には、胤鎮の弟胤紹と重臣中村胤宣が大内持世の支援で叛乱を起こし、胤鎮が追われたこともあった。胤鎮は、嘉吉元年(1441)の持世の死後に少弐氏や大友氏らと共に挙兵したものの失敗し、後の文安2年(1445)に旧臣岩部氏らに擁立されてようやく家督を奪還するが、全盛期前夜のこの頃から、既に大内氏の大きな影が北肥前に及んでいた。また、胤鎮は家督奪還と同時にこの千葉城を築いたとされることから、千葉城の築城はこの年から数年の間と考えられる。
中腹の千葉公園の櫓台らしき台地から本丸があった頂上を望む この後の千葉氏の全盛期は長く続かず、寛正5年(1464)の元胤の死後、若年の後継者教胤を相手に胤紹の子胤朝が再び大内氏や九州探題渋川氏と通じ、佐嘉郡の姻族今川胤秋を巻き込んで争乱を起こす。これには、応仁元年(1467)からの応仁の乱による東西陣営の対立も影響したようだ。この一連の戦いでは、教胤が勝利して今川氏が没落し、領地を併呑されるのだが、その教胤も文明元年(1469)に事故で没してしまい、結局は胤朝が当主として迎えられ、この千葉城に入城することとなる。しかし、争いの火種は絶えず、家中の政争から重臣岩部常楽が胤朝の弟胤将を擁立して叛乱を起こし、胤将勢は翌年に少弐氏らと共に千葉城を攻めたが、城は落ちず、結局は将軍義政の命で和解した。
 この後、胤朝は何故か千葉城から晴気城へ移り、弟胤盛が千葉城主となるが、仔細は不明ながら、大内氏と少弐氏の対立が影響したようである。この後、文明10(1478)には大内氏と結んだ胤朝勢が千葉城を攻めたと見られ、城は落ちなかったものの、和睦により千葉城には再び胤朝が入った。しかし、文明18年(1486)10月には、胤朝が胤将に暗殺されるという事件が起きた為、少弐政資の介入を招き、政資の弟胤資が胤朝の娘を娶って名跡を継いだ。これに反発したのは胤盛・胤棟(興常)の父子で、大内氏を頼り、明応6年(1497)に大内氏の筑前侵攻に呼応して千葉城を奪還したと見られ、胤資は晴気城へと逃れた。胤資は直後に自刃するのだが、これをきっかけに、千葉氏は晴気の西千葉と牛頭山の千葉城を本拠とした東千葉に分かれることとなる。
 この東西両家の対立は、それぞれ大内氏と少弐氏を後ろ盾とした為、代理戦争の様相を呈し、勢力の優劣は北九州の大内氏と少弐氏の勢力がそのまま反映される傾向にあったようだ。しかし、享禄3年(1530)以降は大内義隆が九州攻略を本格化させた為に少弐氏は劣勢となり、西千葉家も大内氏に臣従した。
 その後、天文4年(1536.1)に一旦滅亡した少弐氏が同9年(1540)に再興され、翌年の島原半島の有馬氏の北進によって少弐氏と西千葉氏の家臣から台頭した龍造寺氏との協調が模索された結果、東千葉には少弐冬尚の弟胤頼が、西千葉には龍造寺氏の一門で後の鍋島直茂である彦法師丸が、それぞれ千葉喜胤、千葉胤連の養子に入り、千葉両家は少弐氏の家臣となる。しかし、この盟約も束の間、天文14年(1545)正月に少弐家臣馬場頼周が龍造寺一族を謀略をもって討ち果たすと、胤頼も晴気城を攻め落とし、居城とした。空いた千葉城には、頼周が入って改修が施されたが、生き残った龍造寺家兼が老躯に鞭打って反逆に出、家兼に同調した胤連が同年か翌年に押し寄せた為、頼周は城を放棄して落去する途中、捕らえられて斬られている。
往時の千葉城の想像図 戦後、城はそのまま胤連が城主となり、永禄2年(1559)には晴気城の胤頼を滅ぼしたが、同盟者龍造寺氏の膨張に従って次第にその家臣に組み込まれた為、千葉城の戦国末期の様子はよく分からない。ただ、胤連が文禄2年(1593)に小城で没しており、この頃までは千葉氏の城であったのは間違いなさそうだ。胤連の子胤信は、かつて胤連の養子であった直茂に重臣として仕え、後には鍋島姓を与えられて重臣として家は続き、小城には佐賀藩の支藩小城鍋島藩が置かれ、陣屋が構えられた。
 城は、祇園川と清水川の合流点に張り出した標高134mの山に築かれ、頂上と中腹、そして須賀神社のある麓の台地の3ヶ所に郭が構えられている。この3ヶ所は山頂から西方向に一直線に並んでおり、同じく山の西側を廻るように流れている祇園川と清水川を防衛線として、西側に守備の重点を置いた城だったようだ。祇園川沿いには城下町が営まれており、典型的な後背の詰城と言えるだろう。ただ、2km圏内に平井館、赤目城、持永城などの城が点在する為、平時の居館はこれら平野部の城館にあった時期もあるようだ。
 現在は、前述のように麓の台地である小山が須賀神社境内となり、中腹の中山は千葉公園として整備され、展望台も建っている。ただ、山頂には無線施設が建っており、遺構の破壊もあったようだ。千葉公園は、最高所に小さな台地があり、その下に展望台が建つ郭、更にその下にもう1段の削平地が確認できる。最高所の郭は、大きさから言えば櫓台に丁度良い大きさで、山頂への見通しも利き、展望台が無ければ麓の眺望も期待できることから、見張台や山頂と連携する狼煙台などの機能が置かれていたのだろう。ここから公園駐車場までは、鞍部のような広い通路を挟んで繋がっているが、駐車場も大きな平場となっているほか、そこから山頂に向けては数段の削平地が確認できる。ただ、この辺りは当然ながら後世に人の手が入っている為、当時からの削平地かどうかはよく分からない。駐車場からは、上り道の林道があるが、途中で行き止まりとなっており、山頂へは行けなかった。行き止まりの場所から少し直登すれば行くことは出来ると思われるが、千葉公園へ向かう途中に変則の十字路があり、そこから右折すれば山頂へは行くことが出来るようだ。