若江城 所在地 大阪府東大阪市
近畿鉄道若江岩田駅南西1km若江小付近
区分 平城
最終訪問日 2014/4/23
若江城説明板 若江城は、畠山基国によって築かれたといい、築城年代としては永徳2年(1382)頃とされるが、一説に応永年間(1394-1428)に掛けての築城ともいう。ただ、基国の没年が応永13年(1406)である為、下限はその年となる。また、大阪府全志には基国の父義深が築城したという記述があり、これに従えば義深が兄国清の叛乱に加担したことを赦された貞治5年(1366)以降の話となるが、義深自身は河内との関わりが多くなく、少し考えにくい。
 一般的な築城年とされる永徳2年(1382)の少し前の河内守護は、楠木正儀であった。正儀は有名な楠木正成の三男で、南朝方であったが、和平派であった正儀は南朝内で孤立した為、管領細川頼之を頼って北朝に帰順し、河内と和泉の守護職もそのまま認められていたのである。しかし、康暦元年(1379)の康暦の政変で頼之が失脚し、更に正儀自身も和泉守護職を罷免されると、やがて南朝に帰参し、これに代わって築城年に河内守護職に任ぜられたのが基国であった。つまり、基国の使命は河内を本拠とする楠木一党の討滅で、守護職を得た年に守護所兼軍事拠点として若江城が築城されたと見るのが、最も合理的なわけである。
 室町時代の守護は在京というのが一般的であった為、築城後の若江城には、守護代で築城の実務に当たったという遊佐国長(長護)が入り、以降は遊佐氏が世襲した。そして基国も、楠木一党を破って河内一国を掌握し、幕府内でも畠山氏で初めて管領に就くなど、河内を足掛かりに勢力を拡大していく。しかし、権勢を得た畠山氏は、やがて悪御所と呼ばれた6代将軍義教の頃には危険視されるようになり、基国の孫持国は義教によって一時更迭されるなど、否応無く権力争いの渦中へ放り込まれてしまう。また、持国自身も、嫡出の男児がいないことから弟持富を養嗣子としていたが、後に庶子義就を後継としたことで家臣団が反発し、家臣団は持富の子弥三郎、次いでその弟政長を擁立するなど、内訌の芽が芽吹いていく。そして、この後継者争いは、持国の政敵細川勝元の介入もあり、後に応仁の乱の一因ともなった。
 このように畠山家中が割れる中、若江城は河内の重要拠点として重視され、義就も在城したことが見え、長禄4年(1460)10月には、将軍義政に背いた義就への追討令で大和の筒井順永が城を攻略し、義就は嶽山城へと退去している。その後は、畠山家の相続を認められた政長側の拠点として活用され、康正4年(1463)の嶽山城攻略の際には、筒井氏や越智氏などの大和衆も拠点として利用したという。
 両者の対立は、文正2年(1467)の上御霊神社での御霊合戦を端緒としてついに応仁の乱へと発展するが、政長方の遊佐長直が留守を守る若江城は、これに先立つ前年9月に義就軍に攻略されており、以降も、文明2年(1470)には政長方にあった城を越智氏などが囲み、翌年にも義就方の遊佐五郎を追って筒井氏ら大和衆が若江城を攻略、同9年(1477)には長直が河内確保の為に若江城に入るも義就軍に攻撃され逃亡するなど、幾度もの攻防が見える。そして、この最後の若江城の戦いの結果、義就が入城し、後に河内十七箇所や犬田城の戦いでも勝利した義就が、家督を得ないまま河内を実効支配した。この後も義就は若江城か高屋城に在ったが、義就の病没後の明応2年(1491)には、重臣遊佐順盛が城主であったようだ。
 一方の政長は、幕府中枢にあったことから義就死去を機に将軍義材を動かして義就の子基家(義豊)を攻撃するが、基家と裏で繋がる管領細川政元に明応2年(1493)に明応の政変を起こされ、義材は将軍職を失い、政長も基家に敗れて自刃に追い込まれてしまう。これにより、基家は畠山惣領となったが、政長の子尚順は紀伊に落ち延び、以降も畠山家の内訌は代を替えて続いた。
 その後、尚順は紀伊を根拠地として河内や大和で逆襲に転じ、明応8年(1499)には基国を河内十七箇所で討ち、若江城も奪回したが、情勢は政元との対立へと次第に変化し、この過程で攻防の主軸は他の城へと移っていったようだ。政元への対抗から、永正元年(1504)に尚順と基家の子義英は一時和睦しているが、若江城はもう守護の入る城ではなかったようで、尚順は高屋城、義英は誉田城へ入城している。また、この頃の若江城主ははっきりしないが、一説には再び順盛が城主を務めていたという。
 この両畠山家の和睦は、2年後の細川家臣赤沢朝経の侵攻で幕を閉じ、河内は細川氏の影響下にしばらく入った。若江城も、順盛が一時は在ったとされるが、永正8年(1511)の船岡山合戦で順盛が討死した後は城の動向は不明となる。その後、六角家臣の若江氏が城主となったようで、天文6年(1537)には叛いた若江兼俊を六角軍が攻囲し、兼俊を父円休と共に高野山へ追放したという。そして、兼俊に代わって堀江時秀が城主となり、大阪府全志によれば、以後、若江実高、若江行綱、堀江実達、山田定兼と城主が変遷した。この後も、河内の情勢は、細川氏や、相変わらず総州家と尾州家で対立する畠山氏に加え、畠山両家の重臣である木沢長政と順盛の子長教を交えて複雑に展開していくが、この中で若江城は、細川氏綱側に与した長教の出陣拠点として見えており、長教が城主だったようだ。だが、その長教は天文20年(1551)に暗殺され、以降の城は畠山高政が維持したと見られるものの、長教の子信教が城主を継いだかどうかは不明で、元亀3年(1560)に三好勢によって陥落している。
 元亀11年(1568)の信長上洛後、三好勢は分裂し、若江城には名目上の三好家惣領で信長に与した三好義継が入った。しかし、信長が将軍義昭と対立しだすと、元亀3年(1572)には松永久秀らと共に反信長の姿勢を明確にして畠山昭高や細川信良(昭高)と戦い、これを破っている。だが、翌年に槙島城で叛乱した義昭が追放されると、義昭の妹婿である義継はこれを庇護した為、11月に織田家臣佐久間信盛が攻囲し、配下の若江三人衆と呼ばれる池田教正、多羅尾右近、野間長前らが城内に織田軍を引き入れた為、義継は奮戦空しく自害に追い込まれ、三好嫡流は滅んだ。
 こうして若江城は信長の属城となり、戦後は若江三人衆が支配したが、翌年には本願寺門徒が城を奪ったらしく、織田軍が奪回の為に兵を動かしたという。その後は織田軍の拠点として使われ、天正3年(1575)に高屋城の三好康長攻略の為に信長が入城し、その後も本願寺攻めや雑賀攻めの際に入城したが、本願寺との和睦で役目を終え、破却された。破却は、和睦の年の天正8年(1580)説と、大坂城築城の際の同11年(1583)説があるが、いずれにしても、資材が大坂城に使われたのは間違いない。
 若江城周辺の地形は、第二寝屋川の開削で一変しているが、中世はやや離れた東西に大和川と玉串川が北流し、その支流も入り組み、水運と川の防御線に恵まれた城だった。城の構造は、若江公民館分館を中心に若江小学校に掛けてが本丸だったようで、二重の堀や土塁を擁し、瓦葺の建物があったことが発掘調査から判っている。具体的な縄張は不明のようだが、明治初年までは城跡がある程度明確だったようで、堀跡の低地や天守台と呼ばれた高地があり、古井戸も幾つか残っていたという。
若江城を示すいくつかの碑 現在の若江城の跡地には、残念ながら遺構と呼べるものは何も無く、城跡を示すものは、若江公民館分館の所の城の案内板と、道路を挟んだ反対側の小さな社に幾つかの碑が固まって建てられているのみである。明治期に残っていた遺構は、当然のように市街地化で痕跡すら無く、江戸時代以前の廃城ということで、地図上の路地の形からも構造を追えなかった。現地は、中央環状泉の巨摩橋東の交差点から東にすぐで、若江小学校を目印にすれば解り易いのだが、駐車スペースが公民館の所にしか無く、注意が必要である。